【講談社】
『少年と少女のポルカ』

藤野千夜著 



 ある人にとって、どういう状態が自然に感じるかというのは、当然のことながら個人差がある。たとえば冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』に登場する少女バロットは、全身を締めつけるタイトな服装を好む。そうでもしなければ、全身がバラバラになりそうだと感じる彼女にとって、タイトな服を身につけるというのがスタンダードであり、また違和感なく自分が自分でいられるための状態だと言うことができる。あるいは、嶽本野ばらの諸作品において、ある特定のブランドで身を固める登場人物たちについても、同じようなことが言える。彼らがまぎれもない自分自身でいつづけるために、ブランド物の衣装は必要不可欠な「武装」であり、またひとつの「矜持」でもあるのだ。

 これはべつに、服装に限った話ではない。たとえば私が今勤めている会社は、大学卒業後に就職した職場であり、今もそこに勤めつづけているという事実が、私とその職場との相性の良さを証明するひとつの判断材料ともなっているのだが、その一方で会社を辞めていった人たちも大勢いるわけで、彼らの何人かは「その会社にいる自分」という状態が、どうしても馴染めなかったということになる。こうした違和感というのは、社会生活をおくる私たちにとっては大なり小なり感じずにはいられないたぐいの感覚であるが、その大半は解決する方法があるし、また代替えが利かないわけでもない。服装であれば着替えればいいし、勤め先であればいったん辞めて別の場所を探せばいい。むろん、いろいろと困難はあるかもしれないが、少なくとも別の道が用意されている、という意味では、まだしも救いはある。

 藤野千夜の作品は、『おしゃべり怪談』の書評でも書いたように、何気ない日常生活のなかでふといだいてしまう違和感、とくに女性が自身の性差ゆえに感じる漠然とした不安やちょっとした不満というものをテーマに置くことが多いのだが、本書『少年と少女のポルカ』では、よりはっきりとした形をとるようになる。なにしろ、男子校に通うトシヒコは自分がホモであることを自覚しており、同じ高校の陸上部に所属しているリョウに恋をしている身であるし、同級生のヤマダは自分は本当は女であり、間違って男の体に生まれてきたと主張しているのだ。

 どちらも身体が男であるという厳然たる事実があるにもかかわらず、トシヒコのほうの心は女にではなく男に恋愛感情をいだいてしまい、いっぽうのヤマダの心は、自分が女であるという認識から逃れられないでいる。自分がもって生まれた体というのは、たとえば衣服や職場のように容易に取り替えるというわけにはいかない。それゆえに、同性愛や性同一性障害などという名でひとくくりにされた者たちの不幸があるのだが、しかしながら彼らは、自分の体と心のあいだにある違和感を、まるごと受け入れてしまう。トシヒコは自分がホモであることを悩まないホモになると決意し、ヤマダのほうは自分の体を女に変えるために睾丸を摘出し、ホルモン注射を打ちつづける。

 世の中には男と女の二種類の人間しかいないわけで、このふたつが同じ場所にいたとき、当然のことながらその違いをまのあたりにしなければならなくなる。著者の書く女性がいだくことになる違和感は、たいていは夫といった身近にいる男性の存在ゆえに浮き彫りになってくるというパターンがあるのだが、本書の場合、こと自身の体という意味では自分ひとりしかいない状態だ。たとえ自分の周囲に自分と同じような性質の人間がおらず、それらとの比較から、自分の存在が社会的にはアブノーマルであり、マイノリティであると自覚することはあっても、あくまで自分は自分だと決めてしまえば、あとは自分の心の持ち方の問題だということになる。だからこそ、トシヒコもヤマダもその部分についてはあっけらかんとしているし、物語の内容も妙に深刻な状況になることもなく、彼らはまるで普通の高校生のような感じで恋を楽しんでしまう。

 男を好きなことで悩むのは自分が生まれてきたことを悔いる気持ちになって、歩道橋を渡るたびにダイブしてしまいそうな衝動を沸き起こらせたものだったが、好きな男の子のことを悩むのはたとえ先行き手痛い破局が待ちかまえていようともどこかに希望が残されているぶん仄かな温かさが感じられた。

 そういう意味でこのふたりの問題は、たとえばトシヒコの幼なじみであるミカコのかかえる問題とは一線を画していると言える。彼女は偏差値の高い女子高に入学したものの、電車に乗ることに精神的な苦痛を訴えるようになり、高校に通えなくなってしまったのだが、その原因が何なのか、本書のなかではあきらかにされることはない。高校に通いたいという意思はあるみたいなので、心とは裏腹に体が拒否反応をしめしているという状態なのだが、こうしたミカコの心と体とのあいだにわだかまる違和感は、むしろ本書のもうひとつの収録作品である『午後の時間割』に登場する、予備校生のホンダハルコのいだく違和感に通じるところがある。彼女は十八歳だが、六十四歳の自分こそが今の自分にとって一番自然であると感じ、以降「六十四歳の私」を常に意識して生活していくようになるのだが、彼女たちに共通しているのは、そうした違和感を回避する方法が、いずれも一時避難の域を出ないという点である。

 もっとも、トシヒコやヤマダにしても、彼らの突き進む道はまったくもって前途多難であり、彼らの恋が成就する見込みはほとんどゼロに近い。そしてそうした結末は、『午後の時間割』でハルコの恋人として登場するテシロギの結末からも示唆できることではある。むくわれないとわかっている恋――だが、そんな恋愛の形は、たとえ異性同士であったとしても充分起こりえることだ。社会の一般常識という、恐ろしく偏見に満ちた壁さえ無視するなら、けっきょくのところ本書の登場人物たちも、本書を読んでいる私たちも、さほど大きな違いなどないということを、本書は雄弁に物語っている。

 彼らはけっして何かに対して立ち向かったりするようなことはないし、誰かを仮想敵と見なすようなこともしない。あるいは、そうした戦いそのものが虚しいということを、本能的にさとっているということなのかもしれない。人は人、自分は自分として、あくまで自分にとっての自然体であることを望む本書の登場人物たちの姿が、他の人たちに比べてずっと自由であるように見えるのは、はたして私だけだろうか。(2007.12.26)

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