【集英社】
『あなたがほしい』

安達千夏著 



 会社という組織に属して働くこと、生涯の伴侶とも言うべき異性を見つけて結婚すること、夫婦の愛の結晶である子供をもつこと、そして、あたたかな家庭という言葉をそのまま内包する、マイホームを建てること――日本の社会で暮らしていくかぎり、人はいつか必ずこのような問題と直面しなければならなくなる。だが、私はふと疑問に思うのだ。会社に入れば社内や取引先との人間関係に縛られ、結婚すれば夫婦という枠にはめられる。子供が産まれれば育児にとらわれ、そして家など建てようものなら何十年というローンと、その土地に縛られることになる。まるで、自分で自分を何重もの檻の中に閉じこめるかのような選択を繰り返してまで、人は、日本の社会が押しつける「一人前」にならなければならないのだろうか、と。

 本書『あなたがほしい』に登場するカナと小田は、そういう意味では一生「一人前」になることはないだろう。ふたりの関係は、端から見れば完全なセックスフレンドであり、けっして恋人という関係にはない。個人で事務所を構える建築家の小田は、結婚はしないし自分の子孫も後世に残すつもりはないと宣言してはばからない、女グセのよくない四十男であり、一方のカナが恋愛対象としているのは、現在ベルギーに留学中の留美という女性なのである。
 レズビアンでありながら、男と寝ることに何の抵抗もないどころか、常に自分が主導権を握るかのようなセックスをするカナ――だが、そこには両親に愛されることなく育ってきたひとりの少女の、鬱屈した想いがあった。

 自分という個の存在を認め、受け入れてくれる「家族」という名の環境――心から安心して甘えたり眠ったりできるその環境に恵まれなかった子供たちは、いったいどうやって自分の個を確立させていくのだろうか。これは、例えば柳美里の『家族シネマ』などでも提起されている問題であるが、本書のなかでカナは、同性でである留美のなかにそれを見出そうとする。けっして家族とはなりえない関係――だが、自分の「帰る場所」として、留美のすべてを所有したいという欲望に焦がれるカナは、まるで初恋に悩む少女のように、どうしても一線を越える決意をつけられずにいる。女性の身体に性的興奮を覚えてしまう自分、そのくせ、あくまで支配するという立場で男と寝る自分、そして、いつも拠り所なく、自分のことだけで手一杯の、そんな臆病な自分がどうしても好きになれない自分のすべてを留美の前にさらけだし、それでもなお、こんな自分を認め、許してほしいと願うカナの想いは、本書のあちこちで展開される露骨な性描写とは対照的に、ひどく純粋で、それゆえに脆く崩れやすそうに見えてしまう。

 夫婦や恋人、愛人などといった枠から完全にはみ出してしまう、定義のつけようのない人と人との関係は、あるいは既存の価値観の崩壊にともなう新しい価値観の模索であると言うこともできるだろう。だが、カナはけっして模索者ではない。なぜなら、父と母のような人間にだけはなるまいと肩肘を張り、両親と自分とはまったく別の人間なのだと思いこみ、実際の行動に移せば移すほど、けっきょくのところ、両親の影響から逃れられないでいる自分の姿に気がついてしまうからだ。

 本当はもう、二人とも気付いている。世の中には、対等で尊敬と思いやりに満ちた夫婦関係も存在するということに。裕福ではなくとも信頼し安らげる家族や、さっきまで叱りつけていても最後には抱き締めてくれる親が存在するということも。――(中略)――とっくに気付いている。不幸な結婚をした親に義理立てして、傷ついた子どもで居続ける必要はないのだと。何から何まで引き受けるのはやめて、彼らを置き去りにしてもいいのだと。

 カナのセックスは、留美との情事を想像し、自分の感情を高ぶらせることで成立している。そういう意味ではセックスというよりも、むしろ自慰に近いものがあるのかもしれない。そして、あくまで「親友」としてそんなカナの気の済むようにふるまうことを許してきた小田――カナが最後に見せた決意は、おそらく彼の存在なくしてはありえなかったであろう。
 カナが、傷ついた子どもであることから脱却するまで、もうしばらく時間がかかると思われる。だが、私の脳裏には、カナが大切にしている人の前で堂々と宣言する姿が見えてくるのだ。その言葉は、きっとこんな風だ。――「あなたがほしい」。(1999.09.11)

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