【福武書店(現ベネッセ)】
『東京亜熱帯』

大鶴義丹著 



 夏休み、いい響きだ。他人はどうか知らないが、少なくとも都会の会社でサラリーマンをやっている私にとってはある種の郷愁さえ感じさせる言葉だ。夏休みと、夏を満喫するすることは、分かちがたく結びついている。海水浴、キャンプ、スイカ、花火――いったい、いつから夏はただ暑いだけの季節になってしまったのだろう。もしかして自分は、サラリーマンとして給料をもらう代わりに、何かとても大切なものを捨ててしまったのではないだろうか――本書『東京亜熱帯』を読むと、ふとそんな焦りにも似た何かを感じさせられてしまう。

 タカは、太陽が誘うような眩しさをあたりに撒き散らしている夏のある日――高校の時の友人であるヨシヒロとジンとともに女の子をナンパして乱交パーティーを繰りひろげた次の日の朝、会社をやめようと決意する。それは、多くの規則と枠組とでそこに暮らす人々を縛りつけようとする日本の社会から逃げ出したい、という想いがもたらした、彼だけの夏休みだった。そしてタカは、その夏休みの間に、かつての恋人の死を、水商売から逃げ出したタイ人のテラとの出会いを、そんな彼女と男三人との奇妙だが、ずっと続いてほしいと願わずにはいられない共同生活を、ジンが起こした交通事故を、そして必ず訪れる夏の終わりを経験する。

 夏という季節は、人々の服装だけでなく、心をも解き放つ力を秘めているようだ。タカにしろ、『夏のせいかもしれない』の山口にしろ、企業という組織の一員として働くことに終止符を打つふんぎりをつけさせたのは、まさに夏のせいなのかもしれない。「夏だからサラリーマンやめた」――そう言われてしまえばそれまでなのだが、それでも私は考えざるを得ない。彼らは、サラリーマンであることをやめて、何になりたかったのか、あるいは、何をやりたかったのか、と。

 私がまだ学生の頃にも、似たような人はけっこういた。「サラリーマンにだけはなりたくない」――彼らは口をそろえてそう漏らす。たいして驚くべきことでもなかった。よくあることだ。「企業の歯車」という言葉もよく耳にした。今の会社に入ってからも、同期の社員がある日ふらっと会社をやめていく光景をよく目にした。よくあることだ。だが、よくよく考えてみればわかることだが、ひと口に企業と言ってもその中身はまさに千差万別であるし、サラリーマンがみんな、従順で不甲斐なく、何の目的もなく生きているわけでもない。

 おそらく、彼らはサラリーマンであるのが嫌なのではなく、何の目的もなく生きていくのが嫌だったに違いない。会社という組織の一員となることが、とりあえずの自分を定義するための逃げ場所でしかないことに気がついた人間だけが、会社をやめようと決意するのである。

 生まれる前の記憶を思い出す高校生の話を聞かされたタカは、ふと思う。

 彼女らはそう言って自分たちの限られた選択の権利をごまかしているのだろう。未来に経験するであろうことさえも予想がつく日々。誰にもしばられない未来は前世にしかないというのか。
 僕はいやだ、まだどこかに隠れた、知らない選択があるはずだ。今夜、この瞬間にもそのトビラがどこかに存在していると思いたい。

 自分を構成する要素、というものをふと考える。自分はいったい何者なのか。子供のときであれば、自分の町の学校が肩書きにつく。部活動をしていればその肩書きもつくだろう。会社に入れば、○×株式会社という肩書きがつき、そこで出世すれば役職という肩書きもつく。だが、そういった肩書きは、自分の外から与えられた、言わば砂上の楼閣のようなものでしかない。それらをすべて取り払って、なお自分に何が残るのだろう。「まだどこかに隠れた、知らない選択」――本書の登場人物たちは、その選択肢を求めるための第一歩を踏み出した。それは、自分が確かな何かであることを証明するための旅立ちであるとも言えよう。(1999.07.23)

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