【みすず書房】
『灰色の魂』

フィリップ・クローデル著/高橋啓訳 



 真っ黒だとか、真っ白なものなんてありゃしない、この世にはびこるのは灰色さ。人間も、その魂も同じことさ……。あんたは灰色の魂、みごとに灰色、みんなと同じようにね……

 どんな聖人君子であっても、あるいはどんな極悪人であっても、死だけはすべての人間に平等におとずれる。そして、これまでたしかに血がかよい、呼吸をし、言葉でコミュニケーションをとってきた人間がこの世から永遠にいなくなってしまう、という事実だけを考えるのであれば、ベッドのうえで大往生をとげるのも、交通事故でむごたらしく死んでいくのも本質的には変わりないものだと言える。もちろん、それは言葉上の概念でしかないし、たとえばまだ先の長いはずの若者が無残に殺されていくのをまのあたりにすれば、いたましいという感情は抑えがたいものがあるのだが、それでもなお、それはあくまで残された者の感情でしかない、という言い方もできる。

 死者はもう何も考えないし、どんな感情ももちようがない。それでも、生前に彼と親しい関係にあった人たちの悲しみは残る。だがそれ以前に、無関係な人間にとっては、それはたんなる人間の死という記号でしかない。たとえば、第一次世界大戦における戦死者は一千万人を超えると言われているが、その一千万人のひとりひとりが、今の私たちと同じように感情をもち、生活をし、そして幸福に生きたいというささやかな希望をもっていたはずであるにもかかわらず、その一千万人という戦死者の数から、そこまで想像をたくましくすることは、正直なところ難しい。私たちは死んでいるわけではなく、死んでいなければ、それは生きているということであり、生きているのであれば、そのためにやらなければならないことはたくさんあるはずだからである。

 本書『灰色の魂』という作品について、ひと言で説明するのは難しい。だが、ひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、それは語り手である「私」の視点が、常に人の死というものと向き合っている、ということである。彼はその冒頭で「これからたくさんの影たちを練り歩かせよう」と語るが、その「影」とは、すなわち死者のことでもある。正体不明の語り手「私」によって紡がれていく、とある<事件>の記憶――それは、客観的事実に即して説明するなら、第一次世界大戦のさなかである1917年に、語り手の住むフランスの小さな町で起こった少女殺害事件のことを指しているが、「私」の視点は、たんにその<事件>の犯人が誰なのか、そしてなぜ少女を殺さなければならなかったのか、という、ミステリーで言うところの謎の解明に置かれているわけではない。むしろ、その<事件>を中心にして、それ以前にどのような変化が誰にあったのか、そしてその<事件>が起こったことで、誰の身にどのような出来事があったのか、というある種のつながりを明確にしていくことのほうに重点が置かれている。そして、そのつながりの最後に待ち受けているのは、大抵の場合、「死」という結果である。

 上述したが、その<事件>が起こったのは第一次世界大戦中のことであり、その戦争では大勢の兵士が戦場に駆り出され、死んでいったという現実がある。じっさい、語り手の住む町は、戦場にこそならなかったものの、戦時中は毎日のように傷痍兵が戦場から送られ、それこそ血なまぐさい死があふれかえっていた。戦争によって無尽蔵に増加していく「死」のなかにあって、語り手はことさら<事件>によって発生した少女の「死」に執着しているのだが、それはなぜなのか――そもそもこの「私」なる人物は何者で、<事件>とどのようなかかわりをもっているのか、という疑問は、本書を読んでいく過程で少しずつあきらかになっていく。それも、<事件>にまつわる出来事や、それに直接的・間接的に関係している人物のことを、あるときは過去を遡り、あるときは後日談として語っていくことで、徐々にその全体像が見えてくるような物語構成になっていて、読者はまるで、何重にも絡み合った糸をほぐしていくかのような感覚で、いつのまにか物語の世界に入り込んでいくことになる。

 <事件>による少女の「死」の前に、べつの人物の「死」があり、<事件>によってあらたに生じてしまった「死」がある。<事件>を中心に、連鎖していくいくつもの「死」を語る「私」の物語は、非常に暗い空気に満ちている。そして、それを象徴するかのように、語り手の住む町の天気は常に厚い雲に覆われているか、あるいは雨や雪によって閉ざされてしまっている。この物語全体をおおっている重苦しい雰囲気は、もちろん人間の命の恐ろしいまでの軽さを象徴するかのような、連続する「死」によるものであることは間違いないが、それだけでなく、本書の中心をなしている<事件>の真相が、けっきょくのところあきらかにされることがなく、それゆえに残されたものが、少女をはじめとするいくつかの「死」だけという、絶望にも似た現実によるところも大きい。こと本書のなかにおいて、誰が少女を殺したのか、何のために少女を殺したのか、という設問は、じつは第一次世界大戦での戦死者がなぜ死んだのか、という設問と、本質的には同じものであることを意味している。

 世の中には必ずしも明確な答えが用意されているわけではなく、むしろ謎が謎のままで終わってしまうことが多い、というよりも、それで納得せざるを得ない状況が多々ある、という意味で、本書における「死」は、戦場での死も殺人事件の被害者の死もすべて等しいものとして読者に前に投げ出されている。その不条理さが、本書の物語をことのほか重苦しいものにしている。そしてその「死」の軽さの現実は、じつは本書の冒頭で、語り手の「私」がとりわけ執着しているひとりの人物、検察官のピエール・アンジュ・デスティナの性格にすでに現われている。「勇ましい男たちの結集した一個連隊がたった一度の一斉射撃で壊滅してしまう」戦争のさなかで、「獄につながれた、たかがひとりの人間に死刑を求める」ことを、さながら「手馴れた職人仕事」のように片づけてしまうこの検察官は、自分が死刑にした囚人に対して、その顔すらまともに覚えていないほど、世間とのかかわり、人とのかかわりを避けて生きているところがあり、この人物こそ、じつは<事件>の真相を握っているのではないか、ということが、本書を読んでいくことでわかってくるのだが、現実は、どこかの軍の大佐があわれな脱走兵を犯人に仕立て上げることで「解決」したことになる。もちろん「私」にとって、それは解決でもなんでもない。だが、ではいったいどうなれば、<事件>は解決したことになるのか?

 本書の中心にあるのは、言うまでもなく少女殺害の<事件>であるが、同時にピエール・アンジュ・デスティナという人物の物語でもあり、そのふたつの真相に「私」が迫ろうとしていく物語でもある。だが、その物語の最後に待ち受けているのは、けっして答えの出ることのない設問であり、真相をすべて闇のなかに放り込んでしまう「死」というかたくなな現実だけである。そこには正義も悪も存在しない。あるのは、失われてしまったという喪失感のみだ。あなたは、本書が突きつけてくる「死」――あまりにも無味乾燥な記号をどのように受け止めることになるのだろうか。(2005.10.09)

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