【角川書店】
『アメリカ』

フランツ・カフカ著/中井正文訳 



 世のなかはずいぶんと理不尽なことがまかり通っているものであることを知っているし、どれだけかかわりあいたくないと思っていても、私たちの日々の生活において、そうした理不尽さはある日、何の前触れもなく襲ってくるものであることも知っている。あるいは他の人間なら、その兆候を読み取ってうまく回避することができるのかもしれないし、仮に回避できないとしても、そのなかでできるだけ被害を小さくとどめるよう、立ち回ることができるのかもしれない。だが、誰もがそんなふうに世渡り上手なわけではないし、理不尽な出来事というのはしばしば突発的で、いつも相手に熟考の時間を与えてくれるわけでもない。とっさに起こした言動が、後からふりかえったときに最悪の選択だったとわかることもしょっちゅうだ。少なくとも、私の場合はそんなことばかり繰り返してきたように思う。

 失敗することによって受けるダメージは、年齢を重ねれば重なるほど大きく、取り返しのつかないものになっていく傾向がある。逆に言えば、若いうちにうまく失敗することを覚えるのは、人生を生きるうえで重要なことでもある。とくに理不尽な出来事というのは、しばしば何をどうしても失敗し、ダメージを受けてしまうものであったりする。そしてダメージは、人を臆病にする。失敗しないために行動しないという安全策を、ついついとってしまうのだ。だが、それでは何も進展しないし、何も変えられない。

『変身』や『城』といった不条理をテーマにした短編小説を書いたフランツ・カフカであるが、今回紹介する本書『アメリカ』は、そんな著者の残した長編小説のひとつである。主人公のカール・ロスマンは、十六歳という若さで新天地アメリカに渡ってきた少年であるが、その背景には故郷のドイツで女中に誘惑され、あまつさえ子どもまでできてしまうという不祥事があった。ようするに、体よく両親に厄介払いされた形なのだが、本書を読んでいくかぎり、カールがアメリカに来ることになった理由について垣間見えるのはこれだけである。そして、これだけの情報では、ともすると弱い立場の女中に遊び半分で手を出したあげく、すべての責任を放棄して逃げ出すというろくでなしのように思えてしまうのだが、本書におけるカールの言動を追っていくと、彼はたんに若くて未熟なところのある一介の少年という属性を与えられたキャラクターとして描かれていることが見えてくる。むしろ、それまであったカールの素性など何の意味もないアメリカという新天地において、ひとりの個としての彼がどのような遍歴を続けていくことになるのか、という点こそが本書のテーマだと言える。

 それまで住んだこともない――文化や習慣はおろか、使われる言葉すら違う土地で生きていくというのは、それだけでも大きなエネルギーのいることであるし、苦労することも多いであろうことは、想像に難くない。もっともカールには当初、伯父であるエドワード・ヤーコプという大きな後ろ盾がいた。彼はアメリカの上院議員にも所属する事業家であり、彼の庇護がなければ、カールはそもそも日常会話を取得する機会すら与えられなかったことになる。そういう意味では、ある朝目が覚めたら毒虫になっていたという『変身』のような問答無用の理不尽さからはだいぶ救われているところがある。もっとも、しばらくするとそのヤーコプのもとからも追い出されることになるのだが、その理由についてはカールにとってわけのわからないようなものであるし、私たち読者としても同様だ。それがアメリカという国独自の事情なのか、伯父の個人的な気分の問題なのか、あるいは自身の言動のどこかに要因があったのか、カールに判断するだけの材料がないのだ。ないままに、カールは自身の身を落ち着ける場所を求めて町を転々とすることになる。

 結局、自分を待ってくれる人もいない、しかも、ひとりだけは確実に自分を待っていないニューヨークなんかへ、ぜひとも帰って行かなきゃならぬ必要はないんだ、と自分に言いきかせた。そんなわけで、カールは勝手な方向を選んで歩き出したものだ。

 本書に書かれているアメリカは、個人がなんのしがらみもなく個人として生きていくことができる土地であり、その土地のなかで、若いカールはさまざまな不条理に見舞われながらも、運命の流れていくままに生きていく。彼はその変転の過程でけっして卑屈になることもなければ、感傷的になることもなく、ときには不当な扱いを受けている他人のために尽力し、また自身の受ける不条理に対しては戦う姿勢さえも見せる。本書を読むかぎりにおいて、カールという人物が悪の道へと走る姿は想像しにくい。だが同時に、彼がいわゆる「アメリカンドリーム」を実現する姿もまた、想像しにくい。技師として身を立てたいという希望めいたものはあるものの、とりたててその希望にすがりついているわけではなく、ホテルのエレベーターボーイとして働くことについても、それなりに充実したものとしてまんざらでもないようでもある。

 言ってみれば、カールはその気になればなんにでもなることができる存在の理想像なのだ。私たちがこの世に生まれてきたときに、誰もがもっていたはずの可能性――齢を経るにつれて、圧倒的な現実の重みに潰されてしまう理想像としてのカールは、それゆえに明確な目的をもつことがない。本書を読んでいくとわかってくることだが、作品のなかでカールが出会うことになる登場人物たちとの縁は、けっして長続きすることがない。ときに恋人となりそうな女性と知り合ったりするのだが、カールの変転とともにその縁は断ち切られ、その後のストーリーには登場しないのだ。そして面白いことに、物語が進むにつれて、カールとともについて回っている、ドイツ人としての要素もまた、少しずつ断ち切られていく。伯父とのつながりはもちろんのこと、彼がドイツからもってきたサラミソーセージも、大事にしていた両親の写真も失くしてしまうし、最終章(もっとも、この先にもさらに物語が続いていきそうな余韻があるのだが)においては、野外劇場の劇団員への募集にあたって、彼は偽名を使って採用される。それは見方によっては、カールという名前すら捨ててしまったことになるのだ。

 まるで世間のあらゆるしがらみから抜け出そうとするかのように、それまであった自分という要素を切り捨てていくカールが、「アメリカ」という自由の地で巻き起こすさまざまな騒動は、はたして私たち読者の心にどのような印象を残すことになるのだろうか。(2011.06.11)

ホームへ