【講談社文藝文庫】
『アメン父』

田中小実昌著 



 どこのホームページだったかはもう忘れたが、小説を書くのに必要なものを、ものすごく簡潔にまとめている文章があった。それによると、どんな人物を書きたいか、あるいは、どんな状況を書きたいか、このふたつのうちのどちらか一方でもわかっているなら、小説は書けるのだという。
 だとすれば、本書『アメン父』もまた、自分の父親のことを書こうとしている点で、やはりひとつの小説だと言うことができるのかもしれない。

 本書がどんな小説なのか、説明するのはひどく難しい。著者の父親であり、どこの派にも属していない教会(アサ会、と言うらしい)の牧師だった田中種助のことを、いろいろな資料を参照したりしながら紹介していることは確かなのだが、自分が育った呉の町のこととか、近くの建物の外観や中の間取りとかいった、どうでもいいような細かいことを書いていたかと思うと、宗教の本質や哲学的な事柄に何の前触れもなく移ってしまったりして、話がどんどん脱線してしまうのだ。

 もちろん、著者の父親のことも多く書かれている。彼がどこに生まれ、どんな親戚がいて、学生の時はどんな生徒で何を勉強し、どういう経緯でアメリカに渡りキリスト教の洗礼を受け、どういった思考を経て独自の宗派「アサ会」をつくっていったのか――だが、それらの資料的な内容を読みすすめても、不思議なことに著者の父がどのような人物であったのか、具体的なイメージがなかなか浮かんでこないのである。いや、そもそも著者は自分の父のことを書くにあたって、なぜ父に関するさまざまな資料を集めてこなければならなかったのか。資料を集めなければならないほど、著者は自分の父親のことを知らなかった、とでもいうのだろうか。

 ある意味でいえば、そのとおりなのだろう。実際に、本書のなかで著者は、父は自分のことをほとんど何も語らない人物だと評しているし、著者自身の父に関する知識も、そのほとんどは母親から聞いた話なのだとことわっている。だが、それは事実の半分しか表していない。著者は父親の経歴とかはほとんど何も知らなかったのかもしれないが、その本質は、おそらく理解していたはずである。

 くりかえすが、父は過去は語らないとか、過去はたちきったとかいうふうではなかった。回心でさえも、宗教経験のうちにはいるのがふつうだが、父には宗教経験なんてことも、関係のないことだった。どんな経験でも経験はたくわえもつものだ。アーメンはもたない。ただすがり、受ける。もたないで、刻々にアーメン……。

 自分の父親のことに関するさまざまな資料や、人から聞いた父に関する人柄――そういったもので父親の形をつくろうという試みは、父親の周辺をぐるぐる回ることにはなっても、けっしてその核心に辿りつくことにはならない。なぜなら、父親はアーメンなのだから。何ももたないアーメンである父親にとって、自分の周囲にあるものは意味をなさない。からっぽであろうとすることこそ、父親の本質であることを、著者は知っていた。知っていたからこそ、著者は父親に関する資料を集め、その周囲を肉付けし、そのことによって逆に父親という人間の本質を――からっぽであろうとする本質を表現しようとしたのではないだろうか。

 ただ純粋に物語を楽しみたい、という人には、本書はちょっとキツイかもしれない。ただ、ひとりの人間を表現しようとするときに、本書のような方法もあるのだ、という意味で読んでみると、何か新しい発見をもたらしてくれる作品なのかもしれない。(1999.05.03)

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