【集英社】
『雨鱒の川』

川上健一著 



 恋愛というものを一度でも経験したことのある方は、ある程度はおわかりになるかと思うのだが、純粋に、誰かを好きだと思う気持ちは、たとえ最初は純粋な気持ちであったとしても、時が経つにつれて次第に変化していき、ときに、最初にあったはずの気持ちがわからなくなってしまうことがある。自分以外の誰かのことを強く想うことができる、それは、人間であるからこそ抱くことのできる素晴らしい感情であり、またそれは、人が自分以外の人の心に共感し、そのために行動することができる、という証拠のひとつであることに間違いないが、同時に私たちは、その感情を有する自分というものに束縛されずにはいられない生き物でもある。誰かを好きだと想う気持ちが、いつのまにか自分の欲望を満たすための口実となったり、あるいは憎悪という負の感情に裏返ってしまったり――恋愛は病気であり、いずれ治るものだと述べたのは『正しく生きるとはどういうことか』の著者であるが、だとするなら、恋愛というのはなんと切なく、また儚いものであろうと思わずにはいられない。

 しかし、そもそも男と女が惹かれあうというのは、ある意味とても自然なことでもある。では、「恋愛」と名づけられた、病的精神状態とはまったく別の、まるでそれが自然の摂理であるかのような――それこそ「恋愛」と名づけられるようなものの介入する余地もないような、そんな静かな心の結びつきがあるとすれば、それはおそらく本書『雨鱒の川』に登場する、心平と小百合のような間柄のことを指すのだろう。

 東北のとある寒村を舞台とした本書は、大きくふたつの章にわけることができる。ひとつは物語の前半、心平と小百合が小学二年のときの出来事を書いた部分であり、もうひとつは物語の後半、ふたりが十八という年齢になったときの出来事を書いた部分である。心平は川で魚を捕ることと、絵を描くことに夢中な少年であり、学校で勉強していても、すぐノートに絵を描きだしたり、教室を飛び出して魚を捕りに行ってしまうような「ホンツケ無し」であるが、耳の聞こえない小百合と意思の疎通をとることのできる、不思議な感受性を持ち合わせた少年という書かれ方をされている。

 こうした設定を説明すると、人の言葉が聞き取れない、それゆえに喋り方もどこかおぼつかない小百合が、ごくふつうに接することができるのは心平ただひとりであり、それゆえに、天真爛漫で無邪気に自身の心のおもむくままに生きている心平のあとを、小百合がついてまわっている、という構図が自然と浮かび上がってくるのだが、それはふたりの関係の、ごく一部を説明しているにすぎない。本書を読んでいくとわかるのだが、心平と小百合の間柄は、まるでふたりが傍にいることがあたりまえであるかのような、そこに何ら説明の必要などない、ごくごく自然な関係なのだ。なぜなら、耳が聞こえない、というハンディを背負っているにもかかわらず、小百合と心平がいっしょにいるとき、彼女はじつによく言葉を発し、そしてよく笑う。それも、いかにも楽しくて仕方がない、というふうに、大口を開けてゲラゲラ笑うからである。私たち読者はふたりがいっしょにいるとき、小百合が障害を負っている、という事実を見事に忘れてしまう。それだけのつながりが、ふたりの間にはあるのだ。そしてその関係は、ふたりが十八になってもなお、変わらない。

 そう、年月はふたりの住む村の環境を変化させた。かつて魚を捕っていた川の勢い止めにはテトラポットが沈められ、かつて牛や山羊がいた牧場はさびれ、リンゴ畑もなくなって、あちこちで山肌を切り崩す工事がおこなわれるようになった。魚も、昔ほどは捕れなくなった。だが、心平はあい変わらず魚と絵に夢中な少年のままであり、そんな彼といっしょにいる小百合もまた、小学二年のときとなんら変わらない態度を見せる。子どもだった体は、今はすっかり大人のそれに変化しているのに、ふたりの間柄が小さい頃とまったく変わっていないように見えるのは、何も彼らが生き生きと話す方言のせいばかりではない。

 否応なく襲ってくる、子どもから大人への成長、そしてそれにともなう、互いの心情の変化――何年経っても変わらない美しく豊かな自然のなかで、それまで何の屈託もなくつきあっていた相手を、不意に異性として意識せざるを得なくなった少年少女の心の痛みを描いた作品として、雨森零の『首飾り』があるが、本書の場合、周囲の自然がどれだけ変化しても、けっして変わることのないふたりの人間のつながりを描いてみせた、ということができる。青春小説としての要素、また恋愛小説としての要素を多分にふくんでいながら、そうした点をストレートに出さないまま物語を進めていくことができるのは、間違いなく著者の才能である。

 心平と小百合の間柄を、いったいどういうふうに表現すべきなのか。少なくとも、小さいときから小百合にひそかに想いを寄せていた英蔵の態度のほうが、よほど恋愛小説っぽいものであるのだが、本書が書こうとしているのは、そうしたいかにもな「恋愛」ではなく、むしろそれまであたりまえのようにあったものに対する「気づき」だと言える。

 それは、ただ絵を描くのが好きだというだけでなく、小百合が喜んでくれるからこそ絵を描くのだという心平自身の気持ちであり、また心平の描く絵があるからこそ、まぎれもない自分を生きることができるのだという小百合自身の気持ちでもある。

 心平と小百合の嬌声やはしゃぐ姿が随所に見られ、また物語自体も心平の絵がパリの国際児童画展で特賞をとったり、心平の母親が死んだり、小百合の結婚話がもちあがったりと、けっして平坦なものでないにもかかわらず、それでも本書が非常に静かな物語だと感じるのは、ふたりの感情があまりにも自然でありすぎるからであり、また物語のなかに差し挟まれる深く豊かな自然の情景と、見事に溶けあっているからでもある。とくに、ふたりが出会い、心を通じ合わせることになる雨鱒――上流からメスの雨鱒を求めて川をくだり、つがいとなって去っていった雨鱒の姿は、そのまま心平と小百合の現在と未来を暗示させるものである。

 まぎれもない恋愛小説でありながら、「恋愛」という言葉とともに説明するのがためらわれるかのような、そんな透明感のある物語のひとつの形が、本書のなかにはたしかにある。(2005.01.25)

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