【ソニー・マガジンズ】
『黄色い雨』

フリオ・リャマサーレス著/木村榮一訳 



 この書評を読んでいらっしゃる方のなかで、自分の死というものを身近なものとして考えたことのある方は、どのくらいいるだろうか。たとえば、生まれつき病弱な体をもった人、過去に大きな事故に遭われたことのある人、あるいは老齢に達している方々などは、自分の死を他人よりは深く意識して生きているかもしれないが、幸か不幸か、今のところそうした境遇とは遠いところにいる私にとって、死というものは理解はできるものの、まだまだ実感するにはほど遠いもの、具体的なイメージをもつことの難しい漠然としたものでしかない。だが、少なくとも私が今死んだとしたら、おそらく実家の両親はひどく悲しむことになるだろう、ということくらいは容易に想像できる。もし結婚しているなら、悲しむ人間はその配偶者や子どもたち、ということになるだろうし、それが親戚血縁とはまったく関係のない、しかし深い縁のある人物であったとしても、おかしくはない。

 たしか雑誌「文藝春秋」で、自分の死亡記事を自分で書く、という企画があったのを覚えているが、あの企画が非常にユニークだったのは、死亡記事というものが基本的に他人によって書かれるもの、という前提をあえて崩したところだった。そんなふうに考えると、他ならぬ自分の死というのは、自分ひとりだけではきわめて成立しにくい現象だと言えなくはない。葬式という儀式も、残された人たちが当人の死を確定するために行なうもの、という意味合いが強い。そこには死んだ人間が中心にいながら、当人はいわば蚊帳の外という、不思議な雰囲気がある。もちろん、当人はすでにこの世にいない以上、それはあたりまえのことなのだが、けっきょくのところ人の死も、それを悲しんでくれる生者がいるからこその「死」であって、もしこの世にたったひとりしか存在しなかったとしたら、そのたったひとりの「死」を、いったい誰がどうやって悼んでくれるのだろうか。いや、そもそも自分が死んだということさえ、あるいは認識できないのではないだろうか。

 本書『黄色い雨』は、ある村を舞台とした作品である。アイニューリェ村と呼ばれる、崖にしがみつくように建てられたその小さな村では時とともに過疎化が進み、今ではたったひとりの老人がいるのみとなっている。物語は彼が一人称となって語るという形式をとっているのだが、その冒頭が「〜だろう」という未来を想像する口ぶりに終始している、という意味で、相当に型破りなものとなっている。そのなかで、おそらく近隣の村の若者らしい一団が、なかば朽ち果てたアイニューリェ村に入り込み、そして語り手たる自分の死骸を見つける様子を語っているのだが、文章が未来形である以上、語っている当人はまだ死んだわけではなく、その語りはただの予想にすぎない、ということになる。

 だが、なぜこれほどまでに細密な、そしてあまりにも救いのない未来を想像してしまうのか――老人の語りはその後、一転して過去の出来事へと移行していくが、ついに自分と妻のサビーナだけが村に取り残されたときのこと、そしてその妻も、冬のある夜、粉挽き小屋のなかで自殺をはかったときのことを淡々と物語っていくその口ぶりから、この老人がアイニューリェ村の最後の村人として、村とともに朽ち果てていくことをとっくの昔に受け入れてしまっていることを、私たちは知ることになる。自身の打ち捨てられた死体を、いつか誰かが見つけることになるだろう、という未来の予想、それは、この老人にとってはもはや未来の予想ではなく、確定されたひとつの事実にすぎないものとなっているのだ。

 死が私の記憶と目を奪い取っても、何一つ変わりはしないだろう。そうなっても私の記憶と目は夜と肉体を越えて、過去を思い出し、ものを見つづけるだろう。いつか誰かがここへやってきて、私の記憶と目を死の呪縛から永遠に解き放ってくれるまで、この二つのものはいつまでも死につづけるだろう。

 自分以外、誰ひとりいなくなってしまった村のなかで、名前さえつけられることのない飼い犬ともにすぎていく、まるで時間そのものが停滞してしまったかのような、単調で静かすぎるほど静かな日々――物語というものが、基本的に人と人とのつながりから生まれる人間ドラマであることを考えると、小説としてこれほど成立しにくい題材はないのだが、それでもなお、本書には読者を惹きつけずにはいられないひとつの要素がある。それは、本書には基本的にたったひとりの登場人物しか出てこないにもかかわらず、その彼が一人称で物語を語っている、という点である。もちろん、妻のサビーナや、自分を残して村を出ていった息子のアンドレス、戦争からついに戻ってこなかったカミーロ、幼くして病気で死んだ娘サラ、そしてかつての村の住民など、じつは何人もの登場人物がいることはいるのだが、それらはすべて、一人称の語り手である老人の記憶のなかにあるものであって、たしかな時間軸の確定することのない本書において、彼の過去が実在したものなのかどうかを確かめるすべは、私たち読者にはない。ましてや、その老人は何度も、死んだ人間の亡霊をまのあたりにし、後にはそれがあたりまえのことであるかのように話を進めていくのだ。

 はたして、老人が見ている亡霊とは、ほんとうに死んだ人間が化けて出てきた、ということなのか。それともたんに、老人の過去の記憶が見せている幻覚にすぎないのか。怖ろしいことに、時間軸同様に、私たちにはその真相を明らかにすることはできない。そして、そうした読者の思惑とはまったく無関係に、老人はひたすら朽ち果て、荒廃していく自分の村の様子を語り、また過去の記憶をたどっていく。逆に言えば、老人がその目で眺め、そして過去の記憶を掘り起こすことによって、アイニューリェ村はかろうじてその存在を許されているのであり、それはまさに老人にとって、自分の村を守るための行為、そして自分がたしかにその村のなかで生き、死んでいったという事実を守るための行為である。

 そして、老人のなかで存在する村は、現実と幻想の境界をしだいに曖昧なものへと変えていく。それはその村の最後の住民であり、それゆえに村の一部でもある老人自身の生と死の境界についても同様である。まるで一篇の詩を思わせるような、死にゆく村の静寂を描くその筆致は、身震いがするほど見事なものがあるが、現在も、過去も、未来も等しく失われ、現実であるか、記憶の残骸であるかの区別も、生死の区別すらも意味をなくしたアイニューリェ村が、少しずつ少しずつ「忘却」という名の黄色い雨に包まれていく様子は、ぜひ一度本書を読んでみてほしいと言わずにはいられないものが、たしかにある。

 ひとりの老人が、まるでひとつの村と一体化したかのような、まるで自分の朽ちゆく生命と、村の崩れゆく姿とを重ねあわせるかのような、一人語りの物語――それは、孤独と沈黙と悲壮感によって彩られていながら、それでもなお、いや、だからこそ美しい。何もかもが喪失していく滅びの美しさを、ぜひとも堪能してもらいたい。(2006.01.09)

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