【講談社】
『ひとりでいるよ一羽の鳥が』

中沢けい著 



 できればスマートに、クールに生きていたい、と誰もが一度は思うものだろうが、小説や漫画の世界ならともかく、この現実において、本当にクールでスマートに生きている人など、おそらく誰ひとりとしていないに違いない。もし仮にそんな人がいたとしたら、それはたんに表面上、あなたの目にはそのように映っているだけのことにすぎない。人は誰もがそれなりのプライドというものを持っているし、分別がつくような年頃ともなれば、そうしたプライドが自身を支える重要な要素のひとつにもなってくる。馬鹿にされたり、見下されたりすれば、それが現実的に考えて一文の得にもならないと頭で理解していても、なお傷つけられたちっぽけなプライドのために、よりいっそう馬鹿なことをしでかしたりする。それが、おそらく人間であるということであり、またこの世で生きていくということでもあるのだろう。人生はけっして平坦な道のりではない。ときに間抜けな失敗をしでかし、ときに変なしがらみにとらわれ、ときにみっともなくもがき、あがきながらも、それでもなお何かにしがみつき、懸命に生きていくちっぽけな人間――だが、それがまぎれもない、嘘偽りのない人としての生きざまであるがゆえに、そのみっともない姿はときに人の心を打つことがある。

 本書『ひとりでいるよ一羽の鳥が』は、表題作をふくめた5つの短編を収めた作品集であるが、いずれの短編にも共通しているのは、人間、とくに若い女性の身に突如ふりかかってきた大きな環境の変化に対して、彼女たちがどのようにそれと向かい合い、乗り越えていったのか、その様子が描かれている、ということである。

 もっとも、「突如ふりかかってきた」などという表現を使いはしたが、少なくとも本書のなかでは何か大きな事柄が展開していくわけではなく、むしろ突然の変化による混乱がひと段落ついた後にやってくる静謐な雰囲気のなかで、登場人物たちが過去に思いを寄せたり、淡々となすべきことを実行したりしていく、という印象が強い。表題作の「ひとりでいるよ一羽の鳥が」では、鳥好きだった死んだ父親の過去を娘が回想していく、という形式の作品であるし、「雪のはら」に登場する久枝のなかでは、すでに男女の関係は過去のものとして清算されてしまっている。「手のひらの桃」では望まない妊娠と堕胎という、生々しいテーマをあつかっているにもかかわらず、当の本人の瑞枝のなかでは、すでに気持ちのうえでの決着がついてしまっているようにも見える。だが、よくよく本書を読み込んでいくと、彼女たちがけっして静謐な気持ちをたもっているわけではなく、むしろちょっとしたことにも容易に動揺し、ときに感情を高ぶらせてしまっていることに気づく。

 著者である中沢けいの文章は、けっしてある特定の人物に対して特別な思い入れをもつことなく、常に一定の距離をとって物語を書いている。その距離のとり方が絶妙で、年頃の女性の揺れ動く心の様子を、たとえば風景描写とからめたり、そのときの何気ない動作のなかに織り込んでいくことを常としている。その結果、できあがった短編は、まるで静物画のような様相をおびてくることになる。

 自分の身体の重さと大きさを確かめているのが、他ならぬ自分の掌であることをもどかしく感じた。――(中略)――首筋までは自分の掌をのばせても、背筋には届かない。足首も重さと大きさを充分確かめられるほどに握っていることもできない。苑枝は確かめたかった。(「入り江を越えて」より)

 短編のひとつ「入り江を越えて」の苑枝は、高校で図書委員を務めている女の子だが、その図書委員会の合宿で、男の子のひとりと初体験めいた一夜をすごすことになる。だが、それはたとえば恋愛小説にあるような、心ときめくような体験というよりも、自身のなかで目覚めつつある性への、純粋な興味に突き動かされた結果というべき行為にすぎなかった。「うすべにの季節」に登場する君枝は大学生であるが、けっして裕福とはいえない家庭環境のなかで、それでも化粧品のひとつを買ったことを母親にとがめられたことから、両者の確執が表にあらわれてくる、という話である。どちらも、いかにも女の子らしい想いや行為について、けっして無頓着というわけではなく、それなりに興味はあるにもかかわらず、なかなか世間でささやかれているような感じにならない、いかにも不器用な様子が描かれている。

 この世はとかく自分の思うように動いてくれない、なんとも意地悪なものであるが、いくつになっても夢見がちな男とは異なり、女はそういった世知辛い世の中のしくみに対しては敏感だ。それはあるいは、女性であるがゆえに自分の思いどおりにならない、女としての体をかかえている、ということも影響しているのかもしれないが、そんな女としての生き様は、しかしたしかなリアルとして読者に迫ってくるものがある。そういう意味では、本書は読者が男であるか、あるいは女であるかということが重要な分岐点となる作品だと言える。それは同時に、あくまで現実をとらえ、地に足をつけて生きているか、あるいは理想や夢を追って生きているかの違いでもある。どちらの生き方がよりすぐれているとかいう話ではない。本書は、そういうふうにしか生きられない女性たちが、世の中の不条理にふりまわされながらも、自分なりのやり方でそれらを乗り越えて生きていくという物語なのである。

 人生を航海にたとえたのが誰なのかは知らないが、大海原がけっして穏やかな日ばかりでなく、ときに大荒れの嵐のなかを、それでも船を進めなければならないこともある、という意味で、両者はたしかによく似ている。けっしてスマートでも、クールでもないが、それでもなお懸命に生きていこうとする彼女たちの姿は、同じように生きている人たちの心にきっと何かを残していくに違いない。(2004.11.04)

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