【新潮社】
『空高く』

チャンネ・リー著/高橋茅香子訳 



 リリー・フランキーという名前で私がまず思い出すのは、本屋大賞も受賞した自伝的小説の『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』であるが、逆にこの作品の知名度だけが急激に高くなることで、家族愛を謳う「いい人」として世間が彼のことを認知していくことについて、じつは当の本人がもっとも困惑している、という話が、どこかの記事に載っていたのを思い出す。たしかに、私がリリー・フランキーという名前を知ったのはこの作品が最初で、もしそこから著者のその他の作品を読んだ方がいらっしゃるとすれば、その良くも悪くも胡散臭さの漂う、クセのある文章にそれこそ戸惑いを隠せないだろうし、そもそも彼が文筆家だけでなく、音楽や映画、テレビなどさまざまな方面においてもクリエイティブな活動を行なっているマルチな方である反面、では彼の本職が何なのか、という点について、その本質をさだめることが非常に難しいという一面も見えてくることになる。

 東京に出てきて、気のあう友人たちと好きなことを好きなようにやっていて、なおかつそれでそれなりに生計が立ってしまう――もし私が『東京タワー』を発表する以前の彼を知っていたとしたら、私はきっとそんなお気楽な人物像を思い浮かべてしまうだろうし、それは一面においては真実をつくものであり、それが彼の持ち味でもあったと言える。『東京タワー』という作品がベストセラーの座を勝ち取ったひとつの要因は、そんな「お気楽」な著者にもあたりまえの家族があり、その家族とのつながりが、リリー・フランキーというひとりの人間を形成するうえで非常に大きなウェイトを占めているという事実、そしてそれは、私たちひとりひとりにもあてはまることであることを、あらためて思い知らせてくれたからに他ならないのだが、他ならぬその作品が、それまで何らかの職業の枠に縛られないでいられた著者をして「『東京タワー』の」という肩書きとともに有名にしてしまうことで、逆に思わぬ不自由さをかこつことになってしまっているのだとすれば、それはなんとも皮肉なことだと言わざるを得ない。

 私にはわかっている――この高さからは何も目にはいらない。ごみごみした部分も、歩いている人々も、雰囲気を台なしにする地べたの浮浪者たちも、だらしなく捨ててあるスムージーのスーパーカップの紙コップも――(中略)――何も見えない。

 何ものもさえぎるもののない、どこまでも青く澄み渡った空を、あらゆるものを地上に縛りつける重力に逆らって自由に飛び回るというのは、いったい人々にとってどれほど大きな魅力を与えるものだろうか。本書『空高く』というタイトルから私たちがまず想像するのは、あらゆる束縛から逃れてどこまでも高く、遠くを目指して飛翔していける自由さと、力強さだ。本書に登場するジェリー・バトルは、もうすぐ六十歳になろうとするイタリア系アメリカ人。かつて父が経営していた造園会社「バトル・ブラザーズ」を引き継ぎ、今は息子のジャックに経営をまかせて引退した悠々自適の身であり、何より小型ながらも個人でセスナ機を購入し、気ままに空中飛行を楽しむことができる金と時間をもつ、ある意味人生の成功者としての老後をむかえようとしている男である。じっさい、本書冒頭において彼がセスナ機を駆って大空を飛んでいるシーンは、まさにそのタイトルのもつ「自由さ」と「力強さ」をそのまま体現したかのようなものであり、同時にこのシーンが本書の物語のなかで重要な位置づけにあることは間違いないのだが、同時にジェリーは、上述した引用文にもあるように、大空を自由に飛び回りながらも、その視点を常に地上にあるものへと向けている。

 いや、あるいは向けずにはいられない、というべきだろうか。大手旅行会社の非常勤エージェントとしての第二の仕事ももち、妻は早くに亡くしてしまったものの、ふたりの子どもも友人であり恋人でもあるリタの手助けのもの、今ではすっかり自立してそれぞれの生活を営んでいる。老いたとはいえまだまだ精力はあるし、女性とのつき合いにも旺盛なジェリーであるが、本書を読み進めていくにつれて、読者はこの初老の男が、当初私たちがイメージしていた何の心配もない悠々自適の生活などではなく、おもに自身の家族のことについて、いろいろと潜在的な問題をかかえていることが明らかになってくる。かつて頑固で強引なところさえあった父は、老人介護の特別な施設にひとりで過ごしており、息子であるジャックが経営する会社は、どうも無理な投資がもとで事業が傾きつつあるらしい。娘のテレサはしがない小説家のポールと婚約したものの、じつはある深刻な病をかかえている。そしてリタとの仲――けっして短いといえないながら、それ以上の関係へと発展させることのできなかったリタは、自分のもとを去った。

 自分にとって身近な存在であるはずの家族が、それぞれに深刻な問題をかかえていながら、ジェリーがその事実の一端を知るのは、いずれも当人の口からではなく、彼らの周囲にいる他人を介してのことであり、しかもそのことを当人に問いただすと、きまって返ってくるのは「大丈夫だから」「何の問題もない」「自分なりの考えがある」というある意味そっけないもので、家族の誰も彼の助けを必要としていないようなそぶりを見せる。本書の面白いところは、ジェリーにとってセスナ機を駆って単独で空を飛ぶという行為が、けっして自由と力強さの象徴などではなく、むしろ不自由さ、ひとりの人間としての脆弱さから一時的に目をそらすための避難行為に過ぎないという点であり、それは彼とリタとの仲に象徴されるように、問題をいつまでも先送りしていこうとする彼の性質を逆によく表している、ということでもある。

 ジェリーはしばしば本書のなかで、ずいぶんと長ったらしい思索をこねくり回していくことが多く、それゆえに文章が冗長に感じられてしまう部分さえあるのだが、彼のそうした出口のない思索の堂々めぐりが、目の前の問題からとりあえず目をそらしたいというジェリーの気持ちの現われであるとすれば、なかなか油断のならない作品であると言わなければならない。だが、そうした問題から逃れたいという思いがあるいっぽうで、家族がなかなか腹を割って話をしてくれないという事実に少なからぬ疎外感を覚えているのも事実であり、ひとまとまりの家族であること――とくに、お互いにもう子どもではない年齢どおしの家族との、その微妙な距離感を伝えていく雰囲気は、ある意味で秀逸なものをもっている。

 そして、彼の意識はしばしば過去へと飛ぶ。野球選手としての才能がありながら軍隊に入り、ベトナム戦争からついに戻ってくることのなかった弟のこと、少しずつ狂気にむしばまれて、ある日裏庭のプールに飛び込んで水死した韓国人の妻のこと――けっして穏やかとは言いがたいそれまでの人生のありかたが、あるいは今の状況を生み出しているのかもしれない、という思いに、ジェリーはときどき自分の存在をこの世からきれいに消し去ってしまいたいとさえ思うのだが、たとえばイギリス人企業家であるサー・ハロルドが気球で単独世界一周という、かなり無茶で危険のともなう冒険に挑戦するのに対して、天候が晴天のまま変化しないという確信がもてないかぎりセスナを飛ばそうとしないジェリーが、けっきょくのところ家族のしがらみからは逃れられないという事実についても、じつはよくわかっている。

 思えば、他の誰よりも長い時間をともに過ごしていく、という意味での家族間のことほどやっかいで、一筋ならではいかないものもないと言える。近くて親しいからこそ、逆に言いたいことが言えなくなり、また常に接しているにもかかわらず、逆のその人の心がますますわからなくなっていく。本書はそうした家族という、誰もがそれなりにかかえているものをテーマとした作品であるのだが、本書を最後まで読んであらためて思ったのは、家族関係であれ、それ以外の人間関係であれ、その表面にある複雑なものの奥にあるのは、案外シンプルな思いであるのかもしれない、というものだった。

 重力に逆らって、ただひたらす空の高みへ――それは、いかにも孤高で格好の良いスタイルではあるが、現実には私たち人間は、重力以上に強い人と人とのつながりによって人々の住む地上に結びつけられている。それは、あるいは不自由でやっかいなしがらみであるかもしれないが、その感情がもたらすものが何であれ、あるいは私たちが思っているほど悪いものではないのかもしれない、そんな気にさせてくれるものが、本書のなかにはたしかにある。(2007.06.14)

ホームへ