【早川書房】
『すべての美しい馬』

コーマック・マッカーシー著/黒原敏行訳 



 たとえば、ハードボイルド系の小説に登場する主人公が私立探偵といった職業に就いているのは、彼が何らかの会社や組織の一員としてはたらくことに向かない、独立独歩の性格の強さの表われである。自分の人生はあくまで自分自身のものであって、自身の選択と行動の結果として生じるすべての結果もまた、まぎれもない自分自身の責任であるという感覚は、組織の一員として動くかぎり希薄なものとなっていく。そのことが、まるで自分自身の喪失であるかのように感じてしまうからこそ、彼らは一匹狼でありつづける。たとえ、そのことで自分が不利益をこうむったり、痛い目にあったとしても、彼らにとってその感覚は、まさに死守すべき境界線として機能しているのだ。

 私はもういい歳をした大人であるが、自分がひとりの人間としてはほとんど無に等しい、たいしたことは何もできない人間であることをよく知っている。そしてまた、人間社会で生きていく以上、お互いに助け合って生活していくことの大切さもよくわかっているつもりだ。だがそれは同時に、社会のなかで効率的に生きていくことともつながっている。誰だって楽がしたいと考えるし、意味もなく苦労したり怪我を負ったりしたいわけでもない。そして、そうしたリスクを避けるために、ある程度の不自由さは支払うべき代償として割り切っているところがある。言ってみれば、それが大人になるということであり、またそれが大人としての分別ということにもなるのだろうが、ハードボイルド系主人公たちに私が感じとる、ある種の子どもっぽさ――あるいはそれは純粋さと言い換えてもいいのだが――は、私たちが当然のものとして受け入れている大人の分別に対して「ノー」を突きつけ続け、やせ我慢ばかりしている不器用さがかもし出すものだと言うことができる。

 今回紹介する本書『すべての美しい馬』は、ハードボイルド小説ではない。主人公は十六歳の少年であり、自身の生きる場所を求めて旅に出るという内容だけをとらえるなら、典型的ともいうべき青春小説だ。だが、にもかかわらず本書全体を貫くこのうえないハードボイルド色に、まずは驚かされることになる。

 彼にとっては馬を愛する理由こそ人を愛する理由でもある。それは彼らを駆る血とその血の熱さだ。彼が敬い慈しみ命のかぎり偏愛するのは熱い心臓を持ったものでありそれはこれから先もずっと変わることはないだろう。

 本書を特徴づける独特の文章をひと言で表現するなら、「読者におもねらない」文章ということになる。時代背景や登場人物の説明といったものを可能なかぎり廃し、ただそこで起こったこと、思ったり感じたりしたことを淡々と書き綴っていくという形式の本書は、それゆえにどこか読者を突き放したような印象を強く受けるものであるが、それがとりもなおさず、本書の主人公たるジョン・グレイディのアウトローとしての性格を決定づけるものとして機能している。第二次大戦の終了した一九五〇年ごろのアメリカ、テキサス州に暮らす彼は何より馬を愛し、馬とともに生きることを望む少年でもあったが、彼の敬愛する祖父が死に、父親が戦争の影響で内に閉じこもるようになったことを契機に、彼らの一族が代々経営してきた牧場を手離すことが決定してしまう。そしてその決定は、彼の母親によるものであり、そこに彼自身の意向はまったく反映されてはいない。

 物語の導入部分を読んでいくとすぐに気づくことであるが、ジョンが家族の一員として登場する部分において、彼の名称は注意深く秘されている。そこに登場するのは、ただの「彼」であり、あるいは「少年」でしかない。同様に彼の家族についても、固有名詞ではなく「父親」や「彼女」という表現で通している。そして、そこでの彼の立場は、まぎれもなくただの「少年」であり、家族としては何の決定権もない未成年にすぎないのだ。だが同時にそれは、ジョンが自身の家族に対して、それが自分の血縁であるという認識が薄れつつあること、あるいはあえてそこから距離を置こうとする意思を感じさせるものでもある。牧場を失った今の環境では、ジョンがまぎれもないジョン・グレイディとして生きることはできない――まるでそのことを証明してみせるかのように、彼が親友であるレイシー・ロリンズとともに国境を越えて旅をはじめたときから、ただの「彼」は「ジョン・グレイディ」としての個性をようやくもつことになる。

 そのタイトルに『すべての美しい馬』とあるように、ジョン・グレイディの行動原理のなかには常に馬という生き物が中心を占めている。なにせ越境の旅をする足として、彼らは馬を用いているのだ。その旅の様子はさながら開拓時代の西部劇を髣髴とさせるものがあるのだが、じっさいの時代は第二次大戦後であり、乗り物としての馬はもはや時代遅れの産物と化している。じっさい、彼らが自動車の行き来するハイウェイを馬で横断するシーンがあったりするのだが、想像してみるとかなりシュールな光景ではある。だが、ジョンにとって馬とともに生きるというのが「普通」であることは、それがあたり前であるかのように手間をかけて馬の世話をするその姿の、いかにも様になっている様子からも見てとれる。旅の途中で出会った得体の知れない少年――何かとトラブルの種をもたらし、レイシー・ロリンズなどはあからさまに邪険にする少年に対し、彼が何かと気遣いを見せるのも、少年が馬乗りであったからであるし、後にジョンと恋仲となるアレハンドラもまた、見事に馬を乗りこなす女性だった。

 例の天国はどこにあると思う? とロリンズがきく。
 ジョン・グレイディは風で頭を冷やすために帽子を脱いでいる。そういう場所はいってみないと何があるかわからない、と彼はいった。

 馬とともに生きることのできる場所を求めて家を出たジョンは、メキシコのとある牧場にたどりつき、そこで牝馬を見事に調教してみせたりといった、彼にとっての理想の生活を見いだすことになる。はたして、その牧場が彼らの夢みた「天国」であったのかどうか、それはじっさいに本書を読んでたしかめてほしいところであるが、ひとつ言えることがあるとすれば、ジョンがまぎれもない自分自身でいられる場所というのは、たとえば世界のどこかにある現実の土地というよりは、むしろ彼の内面にある場所、言い換えれば、馬とともに生きるという意思のことを指しているのではないか、ということである。いや、たしかに当初はジョンも具体的な場所を探していたのかもしれないが、本書を読み進めていくと、たとえ彼がどこにいたとしても、その生き方はゆるがないのではないか、と思えてしまう。そこに、馬がいさえすればいい――だが、それを貫くには時代は進みすぎているし、そんな生き方を許す場所もそう多くはない。であるなら、たとえ周囲がどうであれ、自分らしい生き方を貫くことでしかその「場所」は確保できないということになる。

 本書におけるジョンの遍歴は、けっきょくのところそうした意思を再認識するためのものだったのではないか、と思えるものがたしかにある。そして、移り変わっていく時代や環境に自分を合わせていくことを潔しとせず、たとえそれがどれだけ不器用に見えようとも、自身の内にある価値観にしたがって生きていく少年の姿は、少年でありながらどこか年を経たハードボイルドの主人公を連想させずにはいられない。まるで、それが必然であったかのように家族というしがらみを捨て、独立した自分自身でいられる場所を求めた少年の遍歴の果てにあるものを、ぜひ追いかけてもらいたい。(2013.03.03)

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