【講談社】
『すべてがFになる』

森博嗣著 
第1回メフィスト賞受賞作 



 物語世界の中で、私はこれまで多くの天才と呼ばれる人たちと出会ってきた。ある方面の分野に関して、他の人にはない卓越した才能を持っている者――物語が物語としてドラマチックに展開していくために数多くの天才たちが生み出され、そして天才であるがゆえに最後には絶体絶命の危機を切り抜けたり、強敵を倒したり、完全犯罪を見事に解き明かし、真犯人を見つけたりするさまを、何度もまのあたりにしてきた。だが、ここで語られている「天才」とは、「非凡」と同列に扱われる程度のものであって、真の「天才」とは言えない。真の天才とは、おそらく、いとも簡単に現実から逸脱することができる者のことを言うのだ。それも勢いとか、成り行きとか、深い復讐心とかいったものに駆られて逸脱するのではなく、あくまですべてを冷静に見据えたうえで――それこそ呼吸をするのと同じくらいのレベルでそれをやってのけてしまえる者のことだ。彼らにとって、人を殺すことも、驚異的な創造をすることも、そして自殺することさえも、たいしたことではないのだろう。本書『すべてがFになる』に登場する真賀田四季――彼女が引き起こした一連の事件を見て、あらためてそんな思いが脳裏をよぎった。

 本書の冒頭に書かれているのは、ある面会シーンである。しかも、ただの面会ではない。子どもの時からコンピュータサイエンスの頂点に立つ天才プログラマーであり、生きながらにして神話と化した人物――そして十四歳のときに両親を殺害し、それ以降、孤島の研究所の一室で完全に世間から隔離された生活を送ってきた女性、真賀田四季とのモニターを通しての面会である。面会を許された女性は西之園萌絵、その親族がそれぞれの分野で地位と富の頂点にいる名門のお嬢様であり、驚異的な頭の回転と判断力を持つ、いわば真のエリートであり、天才女子大生でもある。このふたりの天才による静かな心理戦から、物語ははじまる。

「165に3367をかけるといくつかしら?」女は突然質問する。
「55万……、5555です。5が六つですね」萌絵はすぐ答えた。それから、少し驚く。「どうして、そんな計算を?」
「貴方を試したのよ。計算のできる方だと思ったから……」女は少し微笑んだ。「でも、7のかけ算が不得意のようね。今、計算の最後の桁だけ時間がかかったわ。何故かしら?」

 この尋常でない会話の内容からも、今後展開されるであろう物語への期待が否応なしに高まってくる、というものである。そして、物語のほうもその期待に見事なまでに応えてくれる。面会からしばらくして、N大学工学部建築学科助教授である犀川創平とともに、ゼミ合宿と称してその孤島のキャンプ場にやってきた萌絵は、犀川をつれてやや強引に研究所に押しかけるのだが、そこで彼女たちが見たものは、完全な密室であるはずの真賀田女史の部屋から現われた、両手足を切断され、ウェディングドレスを身にまとった真賀田四季本人の死体だった……。

 密室殺人、狂的とも言える天才の存在、不可解な殺人事件の謎を解く探偵役――本書を純粋にミステリーととらえるなら、このミステリーの要素、物語の要素としては、とくに目新しいものがあるわけではない。むしろ、これまでさんざん使われてきて、すっかり手垢にまみれているはずのものを巧みに組み立ててつくられた本書は、しかしそれぞれの要素を極限まで上質なものに磨き上げることによって、これまでのどのミステリーよりも魅力的なものに仕上げることに成功しているのである。

 外からは絶対に出られない、荷物も完全にチェックされる、電話や手紙はおろか、ネットワークからもつながることのできない、しかも、最新のセキュリティーシステムをもつ研究所のなかにある、完璧な密室――この最高の舞台を用意したうえで、ときに厭世的にすら思われるほどの冷静な思考を持ち、自分もふくめたすべてを客観的に見据える犀川と、理知的で洞察力にも優れ、ときに大胆に行動をおこすこともできる萌絵という最高のコンビを登場させ、これまでにない天才である真賀田四季の殺人の真相に迫らせる本書は、あるいはこれ以上はない、というくらいに贅沢なミステリーなのかもしれない。もちろん、謎の真相も驚異的なものであることを保証しておこう。充分に驚いてもらいたい。

 ――今の貴女の世界が、どれだけ中途半端で不自由か考えてごらんなさい。遠くの声が聞こえ、遠くのものが見えるのに、触れることはできない。沢山の情報を与えられても、すべてが、忘れられ、失われるしかない。――(中略)――人はどんどん遠くにいってしまうわ。何故、そんなに離れて、遠ざかっていこうとするのかしら? ピストルの弾が届かない距離まで離れようというのかしら?

 呼吸をするように現実から逸脱すること――それが真の天才の条件であると、私は述べた。だが、奇しくも犀川が本書のなかで言っているように、現実が「人間の思考に現われる幻想」でしかないとするなら、天才にとって現実を生きること、現実を現実として認識すること自体がナンセンスなのではあるまいか。意識するしないは別として、私たちは過去の歴史や慣習というものに囚われて生きている。人間である以上、自分たちをとりまく社会が常識だとする認識――たとえば、人の物は盗まない、人を殺してはいけない、といった認識から、そうそう簡単に逃れることはできない。それは犀川や萌絵といった「非凡」な才能の持ち主であっても例外ではない。

「天才」とは、天から与えられた才のこと。その才能を存分に活用するためには、人間であることから逸脱し、神の視点から物事を見ることができるほどでなければならないのかもしれない。もっとも、それが周囲の人たちにとって幸福なことかどうかは大いに疑問だが、天才たちはおそらく、そんなことは気にもとめないに違いない。彼らにとって、私たちは駒のひとつに過ぎないのだから。(2000.02.04)

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