【朝日新聞社】
『悪人』

吉田修一著 



 それがどんなタイトルの小説で、どのようなシチュエーションで出てきたものなのかはもう覚えていないが、たしか「どうすれば心の平安が得られるのか」という疑問に対して、「新聞を読むのをやめればいい」と返す、そのシーンだけが印象深いものとして、今も記憶の片隅に残っている。そして、新聞記事やテレビのニュースなどで私たちがきまって目にするもののひとつとして、どこかで誰かが殺されたという殺人事件が挙げられるのだが、誰かの命が別の誰かの手で無慈悲に奪われるという、このうえなく重い事実が毎日のように報道されていれば、それを受け取る人たちの心に暗い陰が差したとしても不思議ではないし、またそうした記事にすっかり慣れてしまい、何の感慨も湧かなくなったとしたら、そんな自分自身に嫌気がさしたとしてもおかしくはない。なるほど、よけいな情報源を断ち、何も知らないままでいるというのは、心静かに暮らしていくのに有効そうではあるが、その殺人事件の被害者なり加害者、あるいは容疑者なりが、自分のよく知る人物であると判明したとしたら、さすがにそんなことは言っていられなくなる。

 幸いなことに、私のこれまでの人生のなかで、殺人事件にかかわるような事態に遭遇したことはないのだが、仮にもしそうした事態に陥ってしまったとしたら、今度は情報がない、あるいは乏しい情報しかない、ということが心を大きく乱す要因となるだろうことは想像に難くない。ただでさえ、殺人事件が起こればそれと直接関係ない人たちであっても、犯人が誰で、なぜ殺したのか、その真相を知りたがるものだ。それだけ、殺人という一種の暴力は、人々の心をかき乱すものだということでもあるが、とくに殺人事件にかかわってしまった人たちが、その非日常から脱してふたたび日常を取り戻すには、その「非日常」になんらかの決着をつける必要があるのだ。

 それはけっして中途半端なものであってはならない。だが、殺人事件に巻き込まれたことで生じた非日常が大きければ大きいほど、その人に加えられるプレッシャーも大きくなり、それだけ長く非日常にいつづけることが難しくなる。結果として、人はことの真相を都合のいいように捏造したりして、無理やり決着をつけざるを得なくなる。真相をあきらかにするというのは、けっして生易しいことではないのだ。

 吉田修一の作品といえば、不特定多数の何気ない日常を積み重ねていくことで生じる独特の人間関係が味わい深いが、本書『悪人』の場合、それまで無関係だった多くの人々を結びつける要素としてひとつの殺人事件が用意されている。福岡と佐賀の県境に位置する三瀬峠で発見された、ある女性の絞殺死体――だが、その殺人事件の被害者と犯人は、本書の冒頭であっけないほど簡単に明記されている。つまり、本書の中心は犯人探しというミステリー的な要素ではないと宣言しているわけだが、ではこの群像劇的物語の意図がどこにあるのかといえば、むしろ殺人事件という強烈な要素が、人々の日常にどのような影響をおよぼし、どのようなつながりをもたせてしまうものなのか、という点につきる。

 一人の人間がこの世からおらんようになるってことは、ピラミッドの頂点の石がなくなるんじゃなくて、底辺の石が一個なくなることなんやなぁって。

 本書冒頭で明記されている殺人事件の内容は、そのまま私たちがふだんニュースや新聞で目にする殺人事件の記事と同一のものである。いつ、どこで、誰が、誰に、どんな目的で殺されたのか。事件との接点をもたない人たちにとって、それが知りえることのすべてということになるのだが、本書はそうした記事ではけっして伝わることのないすべて――ひとりの人間が殺されるという「非日常」の姿を、事件となんらかの接点をもつ人々の日常を丁寧に描いていくことで浮き彫りにしていこうとする。被害者の仕事仲間や家族、男友達、あるいは加害者の家族や親戚、友人、昔つきあっていた女性など、じつにさまざまな人たちが登場する本書であるが、その日の夜に被害者といっしょに食事をした仕事仲間が、翌日になっても姿を見せない被害者を不審に思うところからはじまり、殺人事件のニュースを知ってその被害者の特徴の類似にもしやと思い、ついにその被害者が自分たちの同僚であることがあきらかになる――そうした過程をひとつひとつ積み重ねていくことによって、必然的に生じていく臨場感は、殺人事件の加害者が誰で、被害者が誰という事実を圧倒するほどのリアリティをもっている。

 逃亡中の犯人が連れの女性とともにイカ料理のお店に寄ったり、ファッションヘルスの女性がネグリジェ姿のまま、かつての犯人の持ちこんできた手製の弁当を食べたというエピソードなど、ある種滑稽とも言えるリアリティというのも、もちろんある。だが、その殺人事件の当事者ではなく、むしろその周辺にいる人々の日常を詳細にとらえていくことで、事件の犯人と被害者の姿が多重構造となって浮かび上がってくるという点こそが、本書のリアリティの基礎である。たとえば、被害者の石橋佳乃はインターネットの出会い系サイトを通じて、複数の男性と交流をもっていたのだが、その情報がワイドショーなどで公開されたときに、世間という蒙昧な存在からの、当然予測される反応は、あくまで事件とは無関係の野次馬的なものでしかなく、彼女の両親などはまったく違った思いを娘にいだいている。犯人である清水祐一にしても、彼をよく知る親戚などは、殺人事件の犯人というフィルターとはまったく別の、生きたひとりの人間に対する視点をもっている。それらの多角的な人物像は、物事の真相をとらえるのがいかに困難なことなのかを物語るものでもある。

 事件の犯人があきらかになっている以上、物語はいわばホワイダニットという点を中心に動いていくことになるが、今回の事件にかぎらず、およそ人間が引き起こすあらゆる殺人事件において、簡単に動機づけできるものではないことが見えてくる。それは言ってみればあたり前のことでしかないのだが、そのあたり前のことを、私たちはふだんどれほど失念してしまっているかを、本書はあらためて思い出させてくれる。そしてそんなふうに考えたとき、私たちは本書のタイトルである『悪人』という言葉の意味について、再考せずにはいられなくなるのだ。このたった二文字の漢字のなかに込められているものは、私たちの想像をはるかに超えて重く、切ない。

 はたして、本当の「悪人」とは誰だったのか。殺人事件の加害者だから悪人となるのか、それとももともと悪人だったのか。いや、という言葉が浮かぶ。それは相対的なものでしかないのだ、と。ひとつの単純な殺人事件のなかに、まぎれもなく生きた人間のさまざまな姿を収めることに成功した本書は、文字どおりの力作であると断言できる。(2008.03.19)

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