【新潮社】
『暁の寺』
豊饒の海(三)

三島由紀夫著 



 あなたはこの世界で、何を信じ、何を信じずに生きているだろうか。たとえば、あなたは神の存在を信じるだろうか? 幽霊やUFOの存在は? 死後の世界は本当にあると思うのか? そして、人が死んでのち、まったく別の人間あるいは別の生き物として再びこの世に生を受けるという、輪廻転生は、本当に起こり得ることだと信じているのか?

 何かを強く信じる、という行為は、ときに現実世界の形成に、本人が思っている以上に大きな影響をおよぼすことがある。なぜなら、現実世界の認識はけっきょくのところ個々の自我に依存するものであり、そういう意味で、世界は人の数だけ存在すると言えるからである。そして、その認識を突きつめて考えていくと、万人にとって共通の認識をおよぼす世界などというものは単なる幻でしかなく、人はその個人が真実だと信じている、個人の世界を生きる孤独な存在でしかない、ということになる。

 三島由紀夫がその晩年に発表した長篇小説「豊饒の海」、その第三巻にあたる本書『暁の寺』は、それまでの『春の雪』『奔馬』とはまったく趣きが異なる、という点では、まさに起承転結の「転」としてふさわしい作品だと言うことができるだろう。「豊饒の海」の最大のテーマである「転生と夢」――本書ではそれまでに示されてきた「転生」のテーマが大きく揺らぎ、「夢」のほうにその比重を移していこうとする意図が垣間見えるのである。

 タイのバンコク――かつて、清顕が交遊を持ったシャムの王子とその従兄弟の生まれ故郷であり、極彩色の自然と肌を焼く強い陽光に溢れ、きらびやかな寺院が林立する、まるで時間さえ緩やかに流れ、それが人の心をも心地よい倦怠へと誘うかのような神秘の国に、国際私法上の問題を解決するために五井物産に雇われてやってきた本多繁邦は、四十七歳になっていた。かつて親友だった松枝清顕、そしてその生まれ変わりだと本多が信じた飯沼勲――このふたりの純粋で、それゆえに激烈な生きざまをまのあたりにしながら、ともにその死を回避させることができなかった本多にとって、彼の支えとなるべき理知の力は、その若さや情熱が過去のものとなってしまったのと同様に、もはや崩れ去った後の瓦礫に等しいものと化していた。運命の流れをどうあっても変えられない、という事実、そしてそんな運命に対して、けっきょく無力でしかなかった自身の人生の不毛に疲れ果てた、一人の壮年の男――それが本書に与えられた本多の役柄だ。
 そんな彼の耳に、「自分は日本人の生まれ変わりだ」と主張する幼い姫の噂が飛び込んでくる。それこそが、清顕の第三の転生、タイの王女ジン・ジャンその人であった……。

 本書のテーマとして「転生」があり、『奔馬』における転生の現実を見せつけられた以上、ジン・ジャンがかつての清顕や勲の生まれ変わりだと考えるのは、しごく当然のことである。なにより今回は、その問答において前世の記憶をはっきりと覚えていることが明らかになっているのだから。幼いジン・ジャンとつかのまの間、ともに過ごしたのち、本多はあっさりと彼女とわかれて帰国するが、そのような態度が本多をして、転生への関心を失わせしめたわけでないことは、彼が帰国後、輪廻転生について西洋の宗教から小乗仏教、そして大乗仏教にいたるまで文献をあさり、それぞれが転生についてどのように考え、体系化しているのかを調べていることからもわかる。仏教における「我」や魂の否定、いわゆる「無我」の思想と、にもかかわらず輪廻転生という概念を信じていることの矛盾の指摘や、さらにその矛盾を解決するための唯識論など、非常に興味深い見解がそこにはあるのだが、そうした本多の研究は、奇妙なことに転生を合法化する試みというよりも、大乗仏教の現実認識――つまり刹那の集合体としての時間認識を、本多の頭に刻む役割を果たすことになる。

 そして、時代はさらに戦後へとくだる。昭和二十七年、本多は五十八歳であると同時に、思いがけず手にした大金によって富豪の仲間入りを果たしていた。十八になったジン・ジャンは日本に留学しており、本多との思いがけない再会を果たすことになるのだが、本書を読みすすめていくにつれて、読者はおそらく、ちょっとした違和感のようなものを感じるはずである。

 それは、言葉にするならこうだ。「ジン・ジャンは、本当に清顕の生まれ変わりなのか?」

 ……もしかするとね。私、このごろ考えるのです。小さいころの私は、鏡のような子供で、人の心のなかにあるものを全部映すことができて、それを口に出して言っていたのではないか、思うのです。

 至高の美を追い求めるがゆえに、破滅的な愛へと身をゆだねなければならなかった清顕、純粋に生きようとするがゆえに、純粋な死を望まずにはいられなかった勲――そこにはともに、けっして手に入れることのできない美を獲得しようともがく、一種の純粋な魂があった。ではジン・ジャンはどうか? 本多が認識する彼女の芳醇な肉体は、ことさら美化されており、まるで女神であるかのように称えられている。そして例えば、大金を手に入れてしまったがゆえに夫である本多を恐れ、奇怪な想像が生み出す嫉妬心に狂う梨枝や、その年齢にあまりに不釣合いな、造られた美で自分を飾り立てる久松慶子、また息子の戦死という出来事を何度も何度も再生産し、悲嘆に暮れる母親という役割しか演じることができなくなった椿原夫人といった女性たちに比べ、南国のおおらかな気配を身にまとったジン・ジャンは、たしかにその肉体も、そして精神も美しく、純粋であるかのように描かれている。そういう意味で、あるいはジン・ジャンは、前世でのふたりが望んでも得られなかった至高の美を具現した存在なのかもしれない。

 だが、その美しさは、はたして本物だったのか? ジン・ジャンのもつ女神のように神々しい美は、もしかしたら、彼女の中に転生の秘を見出したいと強く願う本多の意思が生み出した、妄想の産物だったのではないか、という疑いを、読者はふと抱いている自分に気づく。実際、本多はジン・ジャンの肉体に欲望を抱き、自分の手で汚したいと望みながら、その一方で、彼女自身をけっして手の届かない至高の美としてまつり上げようと模索しているようなところがある。まるで、かつての清顕や勲が、本多のけっして手の届かない高みを生き、そして死んでいったのと同じ運命を歩ませようとするかのように。

 もしこれが事実だとするなら、本多の行為はそれまで客観的な立場にその身を置き、転生という奇跡を見届けるという側から、はじめて主体として現実そのものにかかわる側に立つという意思の表明であると同時に、それまで転生というテーマを前提として読み続け、また安易に転生の奇跡を信じこんできた私たち読者に対する不意打ちであり、さらに常に暗黙の約束事を持ちこまずには成立しない物語そのものに対する不意打ちでさえあるのだ。

 転生の布石はあった。だが、物語の前提としての「転生」が、ほかならぬ本多自身によって曖昧にされてしまった以上、私たち読者に、ジン・ジャンの転生が正しいか否かを確かめる機会は、永遠に失われたと言える。私たちにできるのはただ、本多が「十九歳の清顕と五十八歳の本多をつなぐ唯一の闇の通い路だ」と信じるのぞき穴を通してジン・ジャンの裸身を眺めたときのみ浮かび上がる、転生の印である黒子を、どのように解釈するかだけなのである。

 不意打ちのように「物語」が「反・物語」へと転じてしまった本書を含む「豊饒の海」――はたして、著者がこのシリーズを通して何をしようとしているのか、その答えは、おそらく次の『天人五衰』のなかにこそある。(2001.01.09)

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