【東京創元社】
『赤朽葉家の伝説』

桜庭一樹著 



 たとえば、私は1973年生まれであるが、私を含めたこの世代の人たちは「団塊Jr」とか「ロストジェネレーション」とか呼ばれている。「団塊Jr」は「団塊の世代」、つまり戦後まもなく生を受けた人たちの子ども、という意味であり、「ロストジェネレーション」というのは、バブル崩壊から端を発した就職氷河期に就職活動をしなければならなかった人たちのことを指している。こうした、ある世代をひとくくりにするような考え方というのは、まるでそこにあるはずの個性を否定されているかのようであまり好きではないのだが、言われてみれば私のこれまでの人生というのは、今と比べると学校ではやたらと同級生が多かったし、就職活動はなんだかんだで百社近くまわることになったのを覚えている。私たちの人生は、好むと好まざるとにかかわらず、時代というものに影響されずにはいられない。

 私たちには私たちの時代があり、父母には父母の時代があり、また祖父母には祖父母の時代というものがある。そこには時の隔たりがあり、価値観の異なりがある。それぞれの世代にそれぞれ名前がつけられ、ある世代の人たちをひとくくりにすることで、はたしてその世代のことが理解できるようになるのか、あるいは名づけられることで世代間の断絶がよりいっそう顕著になるのか、はっきりしたことはわからない。だが、ひとつだけたしかなのは、過去の世代が築いた土台のうえに、今の私たちがいて、私たちが築くであろう土台を踏み台に、その後の世代の人たちはさらに次のステージへと進んでいく、ということである。戦後の世代の復興があって今の日本の豊かさがあり、公害問題があったからこそ環境問題が叫ばれ、科学の進歩があるから世の中は便利になった。それは、過去から脈々と受け継がれてきたものだ。戦争も公害も人間の愚かな側面ではあるが、それがあったという事実を否定することは、今の私たち存在を否定するに等しいとも言える。

 本書『赤朽葉家の伝説』は、鳥取県紅緑村――ひな壇のようにだんだんになった村の頂上に古くからそびえる赤朽葉家の、三世代の女性にまつわる物語である。山脈の奥に隠れ住む「辺境の人」に置き忘れられ、後に望まれて赤朽葉の家に嫁入りすることになった祖母の万葉、丙午に生まれた暴れ馬を象徴するように、中学高校と中国地方では伝説的なレディースとして君臨し、後に少女漫画家としても君臨するようになった母の毛鞠、そして本来の語り手であり、まだやりたいことはおろか、注ぐべき情熱そのものすら見つけられずにいる瞳子と、それぞれ性格も生き様も異なる三人の女性による、戦後の赤朽葉家の年代記とも言うべき壮大なスケールの本書のことをひと口に語るのは難しいが、その物語構造について取り上げるならば、そこには大きく三つの筋があると考えることができる。

 ひとつは、戦後から現代の日本がたどってきた時代の流れ――敗戦後の急速な復興から経済大国への躍進、オイルショックやバブル崩壊にともなう停滞といった時代の流れであり、ひとつは赤朽葉家という旧家がたどる時代の流れ、すなわち製鉄技術をもって村に君臨してきた、なかば神話的な存在ともいえる赤朽葉家の威光の変化の流れであり、最後のひとつは、そんな時代のなかで生きてきた三人の女性、ひとりの人間としての万葉、毛毬、瞳子の人生における流れである。そしてこの三つの筋が複雑に絡み合うことで、物語として非常に大きな深みを生み出す効果をはたしている。

「赤朽葉家の千里眼奥様」と呼ばれ、未来を視る不思議な力をもっていた万葉のパートは、「最後の神話の時代」というサブタイトルが示すとおり、何か人智では測りがたい雰囲気、たたりや呪いといった非科学的現象がかろうじて残されているいっぽう、戦後の復興を一手に担ってきた製鉄業、巨大な溶鉱炉をたたえた最新式の製鉄所に象徴されるように、人々の生活のなかにもテレビや冷蔵庫といったものが入り込み、近代化が急速に進んだ時代が描かれている。近代科学と前近代的な伝承、山陰地方独自の神話の要素などが入り混じり、まるでファンタジーの世界を思わせるような独特の世界観をただよわせるなか、その中心にいる万葉は、今はもう失われた「辺境の人」の血筋をもち、そして生まれてきた赤子の生涯をすべて見通してしまうという、ある種恐るべき千里眼を発揮するという意味で、まさに赤朽葉家という長い伝統がもつ精神的象徴、経済的な部分ではなく、もっとべつの、もっと根源的な部分で家を支える巫女とでもいうべき役目をはたすことになる。

 大柄な万葉の特徴を受け継いで、レディースとして無敵の強さを誇った毛毬のパートは、「巨と虚の時代」。八〇年代に世間を席巻した不良文化を「若者たちの共同の幻想」、興味のない現実に背を向け、自分たちなりのフィクションを生み出して現実を塗りつぶしていくものとしたうえで、その頂点にいた毛毬は、また違った意味でその時代を象徴するキャラクターとして蛮勇を振るう。万葉のような千里眼の力はもっていないが、見たくないものは見ない、という強固な意思が、彼女の伝説を築くもととなっていた。それをもっとも端的に表現するものが、妾の子として赤朽葉家にやってきた百夜の存在が、毛毬の目に映らない、という事実であるが、その指向性は最初、レディース<製鉄天使>による四国地方制覇に、ついで少女漫画という虚構の世界に向けられつづけていく。かぎりなく大きな成功をはたしながらも、その根本は虚構であり、空っぽ――赤朽葉家の製鉄業と対比して――であるという意味において、毛毬は万葉とは対極的な立場にあったと言える。だが、そうやって時代をこのうえないスピードで疾駆してきた毛毬をもってしても、赤朽葉家という濃密な血のつながり、そこから生じてくる因縁を完全に振り切ることはできなかった。

 万葉と毛毬、ふたりの女性の数奇な運命のあらましを書いたうえで、はたして、彼女たちにとっての「赤朽葉家」とは何だったのか、という疑問が浮かぶ。たんなる家族というには、あまりに大きくて深い血脈――曾祖母であるタツによって名づけられる奇妙な、まるでその人の運命を決定するかのような名前が象徴するように、それは否応なくつながれてしまうもの、巻き込まれ、取り込まれていくもの、というイメージが大きい。紅緑村において、はるか昔から神話的な意味合いをもって君臨してきた赤朽葉家――それはあたかも、あまりに大きくなりすぎてその全体像が見えなくなってしまい、その自重でつぶれてしまいかねない危うさをともなっている、奇妙な怪物だ。そしてそんなふうに考えていくと、赤朽葉家本家の最後のひとりである語り手、瞳子のパートと、彼女が象徴するもうひとつの名前「自由」のなかに、大きな意味が生まれてくることになる。

 しかし、もしもこの先ユタカと別れずにいて、何年かして結婚することになったら、わたしは祖母も母もしなかった唯一のこと、つまり恋愛結婚をする女になるのだ、とふと気づいた。これからどうなるのか、未来はまだぜんぜんわからないけれど。

 すでに溶鉱炉の火は止められて久しく、赤朽葉製鉄はレッドデットリーフと名を変え、多目的な製造業へとシフトしていった瞳子の時代において、血のつながらない居候をかかえる赤朽葉家に、昔ほどの威光はもはやない。それだけ赤朽葉家において、その血族の死が多かったということであり、またそれはある種、たたらを象徴する赤朽葉家の没落、終焉を思わせるものであるが、瞳子の未来をもって終わる本書のラストは、けっして悲観的なものではない。まだ何者でもない、何ものにもなりきれない瞳子のパートは「殺人者」という、いささかショッキングなサブタイトルがつけられているが、祖母万葉が死ぬ間際に残した言葉の謎と、彼女がかつて視た空飛ぶ男の真相を探る彼女の物語は、自分が他ならぬ赤朽葉家につらなる者であることの確認であると同時に、かつて神話的な威光を放っていた赤朽葉家を土台にして、自分なりのつながりを築いていく作業でもある。本書においてこのパートだけが、ミステリーとしての色合いを帯びているのだが、神話のひとつをミステリーの謎解きをもって決着づけることの意味は、だからこそ深いものがある。

 時代に飲みこまれ、古い血脈になかば翻弄されながらも、懸命に生きてきた赤朽葉家の女たち――数多くのクセのある登場人物と、どこか幻想めいた世界観とで彩られた女たちの物語は、このうえなく力強い本流となって読む者を圧倒する。これぞまさに物語というにふさわしい本書の世界をぜひとも楽しんでもらいたい。(2008.07.10)

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