【新潮社】
『赤ひげ診療譚』

山本周五郎著 



 医療の現場は「なまもの」を扱う仕事だという話を、どこかで聞いたことがある。ここでいう「なまもの」とは文字どおりの意味で、時間が経つにつれてその鮮度が落ちていき、ついには腐ってしまうようなものを指している。医療における「なまもの」とは、患者のことだ。とくに救急患者のような差し迫った「なまもの」の場合、一分一秒がその人の生死を分けることもある。そんな「なまもの」を前にしたときに、医者としては何はともあれ治療という行為をなさなければならない。たとえ、それがこれまで見たことのない症例であっても、あるいは自分の専門外の分野であっても、何もしなければいずれ「なまもの」は腐ってしまう。腐る前にとにかく料理してしまう――そういう意味で、医者に求められているのは「何が正しいか」という判断ではなく、「どうすればよりましなのか」を考え、実行する能力だと言うことができる。

 およそ医者にかぎらず、専門知識というのは大切なものではあるのだが、それだけが重要というわけではない。たとえば私の今の仕事はシステムエンジニアであるが、組んだシステムが正式にリリースしたのちに何らかの不具合を起こした場合、とかくその原因を突き止める方向へと頭が向かいがちなのだが、より重要なのは、その不具合をとにかく解消し、滞った業務を続行させることだったりする。業務の遅延は下手をすれば会社全体、あるいは取引先の企業にも大きな迷惑をかけることがある。時間や資源がかぎられたなかで、「何が正しい」のかはとりあえず置いておいて、まず何をするのが「よりましなのか」を判断するために必要なのは、少なくとも専門知識の量でないことは、私にも理解できることである。

 江戸時代を舞台とする本書『赤ひげ診療譚』には、ふたりの医者が登場する。ひとりは小石川養成所の医長を勤める「赤ひげ」こと新出去定、もうひとりはその養成所の見習い医として預けられることになった保本登という若者であるが、物語のなかのふたりの関係を考えるさいに、上述の「何が正しいか」「どうすればよりましなのか」という考えの違いがはっきりと現われているところが興味深い。

「病気が起こると、或る個躰はそれを克服し、べつの個躰は負けて倒れる、医者はその症状と経過を認めることができるし、生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる、だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃあしない」

(『駈込み訴え』より)

 先祖代々医師を輩出する家系の出身であり、また将来は幕府のお目見医という栄達の道を約束されて、長崎に遊学していた保本登だったが、三年の遊学期間を終えて江戸に戻った彼を待っていたのは、小石川養成所といううらぶれた診療所の見習い医としての勤務だった。しかもそこに通う患者は貧しい身なりをした者ばかり、建物はあちこちが老朽しており、また医長の新出去定は腕はいいものの独断と専横が強く、世間の嫌われ者だという。当然のことながらこの決定に登は不服で、当初は診療所の方針にことごとく反抗する態度をとっていたが、そんな事情にはおかまいなしに患者はやってくるし、また新出去定は診療所にやってくる患者ばかりでなく、さまざまな理由で診療所に来られなかったり、あるいは来ようとしない患者に対して、わざわざ自分から出向いて無料で施療を受けさせるという活動を精力的に行なっており、そうした外診にも付き合わなければならない。

 医者としての知識と技量をもっている以上、たとえ現場をほとんど知らない見習い医であろうと患者の治療には当たらなければならない。登が去定の診療所に預けられたのには、じつはそれなりの理由があってのことではあるのだが、極度の貧困や無知によってさまざまな病気や怪我を悪化させていく人たちと対峙する去定の、いっけん乱暴な物言いの裏に隠された医師としての信念の強さに、次第に惹かれていくようになると同時に、自分をとりまく状況についても冷静にとらえていくようになるという、いわば若き医師の精神的な成長を描いた作品が本書であるが、この登の心情の変化――最終的には進んでこの診療所の医師として残ろうと決意する彼の変化は、そのまま「何が正しいか」という視点から「どうすればよりましなのか」という視点への変化と呼応するものである。

 本書における新出去定は、機能主義の権化のような存在として書かれている。たとえば、彼が医長を勤める小石川養成所では畳の部屋はひとつもなく、すべての部屋が板張りとなっているが、それは貧しいがゆえに掃除もままならない畳の不潔さが病気を悪化させることを知っているからであるし、小石川養成所に勤める医員が全員同じ色の上衣を着ているのは、清潔さを保ち、汚れればすぐに変えられるという機能的な面を重視してのことであるほかにも、その服装から他の人たちがすぐに医師であることを知ることができるという理由もあった。そして、上述の引用からもわかるように、新出去定は医師でありながら、医師としての限界をよく知る男でもある。そのあたりが、医師としての権威を気にして、法外な治療費をせしめることばかり考えている他の医師とは一線を画する部分でもある。

「貧しい人間が病気にかかるのは、大部分が食事の粗悪なためだ」接待へ戻ってから、去定は登にそう云った、「金持や大名が病むのは、たいてい美味の過食ときまっている、世の中に貪食で身を亡ぼすほどあさましいものはない」

(『むじな長屋』より)

 本書に収められている八つの短編のなかには、一見すると病気や怪我とは関係のなさそうな、今で言うところの精神的な疾患に似たような症状をメインに据えたものがあり、それに対して去定や登が行なうのは、薬の投与といった治療ではなく、その患者の過去に何があったのかを聞き出すという、心理学的な処方だったりする。それは見方を変えるならミステリーの謎解きのような要素もあって興味深いのだが、医者を主人公とする物語としては、多少毛色が異なるものであり、読んでいるときはなぜこのエピソードが選ばれたのか、という疑問があった。だが、これも去定の機能主義的な思考を考えれば納得のいくものである。どんな病気なのかはわからないが、その症状ゆえに苦しんでいたり、困った状況に置かれた人たちがいる。であれば、その症状を改善するためにあらゆる手を尽くすのが医者としての本懐である、という考えが、去定という医者を突き動かす原動力となっているのだ。

 そこには、医術とは関係のないものだから放っておく、という選択肢はないし、仮に医術とはまったく無関係であったとしても、人を救うという目的のためであれば、道理や教訓といったものを犯すことも厭わない強い意思と覚悟がある。そして何より、去定にとっての人間とは、どこまでも愚かではあるが、それは貧困といった環境が原因であって、人間そのものに罪があるわけではない、という信念である。徒労に終わるかもしれない小さなことを、それでも絶望することなくつづけていく去定の姿は、このうえなく人間らしい美しさを感じさせるものがある。

 本書を読むとわかるが、去定たちがかかわることになる患者やその関係者は、ときにどうしようもなく愚かで、またこのうえなく身勝手で邪な心の持ち主だったりする。だが、何より人間の体をあつかう学問を修めた去定にとって、彼らはそれ以前に「人間」であるという視点がある。ときに人を愚かにし、ますます権威者たちの懐を肥やしてしまう貧困や無知――その愚かさを克服するための努力をけっして惜しまない医師たちの姿を、ぜひたしかめてもらいたい。(2014.11.04)

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