【講談社】
『田紳有楽/空気頭』

藤枝静男著 



 自分が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるという認識、アイデンティティのありようについて、これまで書評という形を借りてずいぶんと取り上げてきたが、ひとつだけたしかに言えることがあるとすれば、それはアイデンティティというものが、けっして生来のものとして個人個人に与えられているわけではない、ということである。生まれたばかりの赤ん坊に確固とした自意識があるとは思えないし、もしこの世界に自分ひとりしか存在しなかったとしたら、そもそも自分と他者との比較という概念自体も生まれてくることはない。自分がいて、自分以外の多くの他者がいて、そして彼らをとりまく環境があり、そうした要素のひとつひとつと向き合っていくことで、私たちは自分と他者との違いを認識していく。自分を知るというのは、差異を知ることに他ならない。逆に言えば、自分がどんなことに共感し、どんなことに違和感を覚えるのかという点に意識的にならなければ、自分自身のことなど知りようもない、ということでもある。

 アイデンティティとは、もともとあるものではなく、獲得していくものである、という認識――よくよく考えれば、人が小説をはじめとする創作活動に従事するのも、自己同一化をはかるためのものだと言うことができるのだが、自分の内側にあるものではなく、自分の外側にあるあらゆる要素が、その人の自意識形成に大なり小なりの影響をおよぼしていくというのであれば、逆に、自分というものを構成する要素はあらゆる場所、あらゆる時間のなかに遍在している、と言うこともできるのかもしれない。そしてそれが真理だとすれば、そもそもまぎれもない自分という存在自体、じつは移ろいゆく自己の一過程にすぎず、すべては幻にすぎない、という考え方も、けっして突飛なものではなくなってくる。

「小説というものは、自分のことをありのままに、少しも歪めず書けばそれでよい。嘘なんか必要ない」と云われた。私は有難いと思ったが、もちろん書かなかった。そのときの私には、書くべき「自分」などどこにもなかったから、書きようがなかったのである。(『空気頭』より)

 今回紹介する本書『田紳有楽/空気頭』は、なんとも形容しがたい雰囲気を有する作品だ。『田紳有楽』は何気ない日常を綴ったかのような、いかにも私小説を思わせる描写からはじまるのだが、読み進めていくと、部屋のなかにいきなりスパイを自称する人物が現われ、妙な講釈を垂れたのち、いきなり池のなかに飛び込んで消えてしまう。どこにでもありそうな日常のなかに不意にまぎれこむ非日常、という意味では、たとえば川上弘美の一連の作品を彷彿とさせるものがあるのだが、よくよく読みこんでいくと、先程登場した滓見なる人物が、じつは庭の池に沈められた抹茶茶碗であることがわかるばかりか、その他の陶磁器のたぐいが次々と「私」という一人称で自分語りをはじめていく。さらに、冒頭において一人称の語り手であった「私」でさえも、じつは弥勒の化身であると自己主張をはじめ、ようするに、この作品のなかにまともな人間と呼べるようなものが、ひとりもいないままに話が進んでいくという状況に陥ってしまうのだ。

 ただの茶碗が人間に変身する能力を身につけたり、空中や地中を自由自在に移動したり、あまつさえ地蔵菩薩や大黒様がひょっこり出てきたりと、およそ物語としては荒唐無稽きわまりない作品だが、重要なのは物語としてのリアリティでもなければ、そもそも登場人物たちが本当に彼らの主張する存在であるのかどうか、といったことでさえない。むしろ、登場人物(と素直に言っていいのかどうかは難しいところだが)たちが、いずれも「私」という一人称を獲得し、そのうえで自分が何者であるのかを語っている、という点である。

 『田紳有楽』を何の予備知識もないままに読み始めた読者は、そこに登場する「私」という存在について、どのようなとらえ方をするだろうか。ごく普通に考えれば、それは一人称の立場にいる誰か、つまり人間であることを前提に読み進めていくことになる。だが、そうした前提をことごとく覆す形で話は進んでいく。妙に人間臭い感情を有し、まるで人間みたいに自身の過去を語る茶碗やグイ呑みが「私」となるかと思えば、妙に世間ずれしていて、低俗なことに悩まされている弥勒や妙見といった菩薩様が「私」を語り出す――いずれにしても、私たち読者が想定するような「私」は、この作品のなかにはどこにもいない。そして、そのうち私たちは自問せざるを得なくなる。小説のなかに登場する「私」というのは、いったいどういう存在を指しているのか、と。

 一方の『空気頭』のほうは、その冒頭で「私小説」を書くという前提のもとに物語が進んでいくのだが、いざ自分語りがはじまるのかと思いきや、語られるのはもっぱら「私」の妻のこと、それも結核に犯され、何度も入退院をくりかえす妻のことばかりであり、「私」のことについては、わずかに自身の妻に対する冷たい感情について自覚しているといった程度のことでしかなく、それもけっきょくは妻という他者を介してのものである。そしてここにおいても、『田紳有楽』と同じような「私」という人称の混濁が生じる。本書を読み進めていくと、不意に語尾がですます調に変化し、どう考えても以前とは別人の誰かが「私」を語り始めるのである。しかも、その「私」は性欲の高進のために、人糞から怪しげな薬を精製しては、女性との逢瀬を重ねるという変人ぶりをいかんなく発揮するような人物として、自己を語っているのだ。

 自分の妻のことを通してしか自己を語れない「私」と、性欲への偏執ゆえに人糞への執着を見せる「私」――このうえなく尊いものと、このうえなく世俗的なものとがひとつのものとして入り混じっているというのは、本書の作品に共通する要素のひとつであり、そのギャップにある種のおかしさがあるのもたしかであるが、『空気頭』において、このふたつの自己のあいだにどのような関連性があるのか、読者に知る術はない。あるいは、どちらも同一人物であるかもしれないし、まったく違う人物なのかもしれない。そして、ここでも持ち上がってくる疑問は、やはり「私」の在り処ということになる。

「個の実在はない。何にもない。土になり風になり水になるが自分はない。生せず滅せず増さず減ぜずなんてね。思いきったことを云ってたな。やっぱりきつい人だった」(『田紳有楽』より)

 自己の存在を知るには、他者の存在が不可欠だ。だが、人はときに、容易に周囲の存在を自分のものとして取り込んでしまうことがある。他者を自己のなかに取り込んでしまえは、その他者は他者として認識されることがなくなる。そのとき、本当の「私」というのは、いったいどこにあると言えるのか。このうえなく奇妙なこの二作品は、同時にありうべきアイデンティティの形に対して、痛烈な一撃をくわえる作品という意味で、まったくもって油断のならない作品にもなっている。(2007.02.09)

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