【幻冬舎】
『愛の流刑地』

渡辺淳一著 

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 SEという職種柄、すさまじい勢いで進歩していくIT技術への対応や、次々と生み出されては消えていく最新情報の取捨選択といったものは、なかば宿命めいたものだと悟ってはいるが、それでもなお私が驚かずにはいられないのが、インターネットの一般への普及率の高さである。

 これはおそらく私だけではないだろうが、インターネットへの接続は、今や仕事をするうえで欠かすことのできないもののひとつとなってきている。それはたとえば、電子メールやFTPなどの通信インフラとしての便利さだけのものではなく、ネット上に存在する膨大な情報に手早く簡単にアクセスすることができる、という点にこそ集約される。これが何を意味するかと言えば、人間の記憶力の良さが、必ずしも会社員や技術者として優秀な人材の証となるわけではない、ということである。必要以上に情報を頭に詰め込まずとも、ネットにアクセスできる環境があれば、たいていの情報は手に入る。そうである以上、重要なのはいかに多くの情報や知識を知っているかではなく、いかに必要な情報を把握し、いかに早くその情報を探し出すことができるか、という点により重点が置かれるようになってきたとしても、けっしておかしなことではない。

 私たちは言わば、情報過多の時代を生きている。溢れんばかりの情報を浴びるように接することによって、私たちは以前と比べてじつに多くの情報を手に入れることができるようになったが、同時にインターネットの普及は、知識ばかりが豊富で実経験の乏しい、頭でっかちな人間ばかりを育てる結果になりつつあるのではないか、とふと思うことがある。知識や情報は驚くほどもっている。だが、にもかかわらずその知識を自身の体験を通した、生きた知恵に変えられない、あるいは持っている知識を現実に生きるための糧として使うことができない――何かを知るというのは大切なことだが、ただの知識として知ることと、まさに自身の実体験や深い思索によって手に入れたものとを等価と考えてしまうような傾向があるとすれば、それは非常に危険なものではないだろうか。

 インターネットの普及によって、そこにアクセスできる環境をもつ人とそうでない人との情報格差はますます大きくなっていくものと思われるが、本書『愛の流刑地』を読み終えたときにまず私が思ったのは、そこからさらに一歩進んだ段階として発生するであろう人々の二極化、つまりある事柄について、たんなる知識として知っているにすぎない人々と、自身のたしかな体験として理屈ではない部分で実感している人々との二極化であり、またそのことによってさらに深刻化していくであろう両者の隔たりの問題である。

 まぎれもなく、自分たちは深く愛しあい、結果として、圧倒的な性の体験者であり、その意味で、まさしく性のエリートである。

 本書に登場する村尾菊治は「村尾章一郎」の名で知られる恋愛小説家であるが、ここ数年は創作活動のほうは振るわず、もっぱら大学講師や雑誌のライターといった仕事で生計を立てているのが実情だった。五十代半ばという年齢でありながら、妻とは長く別居状態がつづき、一人息子もすでに社会人という立場上、基本的に自由気ままな身の上である菊治だったが、とある雑誌の取材で訪れた京都でおこった、彼のファンであるという入江冬香との出会いは、思いがけず菊治の恋愛に対する情熱を甦らせることになる。

 人妻であり、また三人の子どもの母親という立場にありながら、菊治と会うたびに、菊治に抱かれるたびに、ますます性に貪欲になり、淫らに乱れていって、どうしようもなく菊治とのつながりに溺れていく冬香――まるでポルノ小説を思わせるような性描写、けっして若いとは言えない男女の燃え上がる恋愛感情、それも世間では不倫と呼ばれる背徳的な関係という要素は、同著者の『失楽園』にも共通するものであるが、本書のなかで顕著なのは、この冬香という女性が徐々に菊治との愛に目覚めていく過程が、いわゆる知識として知っているに過ぎないレベルから、実体験として自身の生きる指針へと劇的に変化していく過程として位置づけられているという点である。

 本書においては、人間の肉体がもたらす性の愉楽、そしてそこから生じる相手との究極の結びつきという情報が物語の大きなキーとなっているが、これは別に性愛にかぎったことではなく、およそどのような事柄についても、そうした格差は生じるものである。そしてこれまで知らなかった事柄について、知識で知る以上の実感として、まさに自身の身に振りかかってくるという体験は、かならずしもその人の人生にプラスにはたらくとはかぎらない。世の中には知るべきでないこと、体験せずにすむならそれにこしたことはない、という事柄はいくらでもあるのだ。

 だが、それでもなおそのことに気づいてしまったとしたら、はたして人はどのような行動をとることになるのか? あえて無視しつづけるのか、あるいは行けるところまで突き進んでいくのか? それは人それぞれというべきなのだろうが、本書の展開は後者の道をとった結果として、菊治が陥ることになった悲劇ということになる。

 物語は前半における、まるで性愛指南のような内容とは一転、後半になると刑事事件から法廷闘争という、きわめて現実的な、法による裁きの場へと移っていくことになるが、この物語構造の対比は、そのまま上述の知識と体験による人々の二極化という図式にあてはめることができる。わかる人にはわかる、だがわからない人にはどこまで行っても理解し得ない世界のはざまで、はたして菊治は、自分が冬香にしでかしてしまった事柄に対して、どのような結論を出すことになるのか。その結末については本書を読んで確かめてほしいところであるが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、人はけっして理屈だけで動くものではなく、またそれゆえに個々が感じとる世界の形もひとつではありえない、ということである。

 人を愛することができるというのは素晴らしいことであるが、そこからさらに突き進んでいった先にあるものを見極めようとするなら、ときにたんなる知識として知ることだけでは済まされなくなる、ということ――もはや後戻りのできないところにまで踏み込んでしまった男女の幸福と不幸がどのようなものなのか、もし知識から先の一歩を踏み込む勇気のある方は、本書を手にとってほしい。(2006.06.17)

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