【集英社】
『あの頃ぼくらはアホでした』

東野圭吾著 



 「アホ」という言葉が、大阪弁では必ずしも相手を罵倒するためだけに使われるわけでないことを知っている人は、大阪弁について多少なりとも知識を持ち合わせている方だと推察する。とかくガサツでやかましいイメージを持たれがちな大阪弁であるが、こと清純な乙女の恋の告白の言葉として、この大阪弁が使われるときの色っぽさについては、ぜひとも宮本輝の『春の夢』を読んで、これまでのイメージを払拭してもらいたいものである。大阪弁で「アホ」と言われるとき、そこにはむしろ「しょうがないやつだなあ」という寛容やおかしさ、そして何より親しみの感情が込められている。逆に言えば、心底嫌っている人間に対して、大阪の人たちは「アホ」などと言うことはないのだ。

 本書『あの頃ぼくらはアホでした』は、著者であるミステリー作家東野圭吾の、おもに大阪で過ごした小学生から大学生までの頃をつづったエッセイ集であり、そのタイトルにある「アホ」とは、当然のことながら、当時の著者自身のことを指していると読者は思うわけである。じっさい、その推測は間違ってはいない。だが、ここでひとつ気になることは、その「アホ」が指す対象が「ぼくら」と複数形となっている点である。「ぼく」だったらわかる。だがなぜ「ぼくら」なのか。答えは本書を読み進めていって、すぐにわかった。本書に書かれていることは、たしかに著者自身の体験ではあるが、それは同時に私たち――とくに、似たような世代の男性の大半が、おそらくかつて「男の子」だった頃に体験したことの代弁でもあり、私たち読者は本書を通して、自身の青臭くもどこか懐かしい過去の青春を追体験することになるからだ。

 たしかに、今や立派(?)な大人として社会人をしている私から見ると、本書に書かれている当時の著者やその周囲にいた者たちの言動は、なんとも子どもっぽく、そしていかにもアホらしいことに夢中になっていて、どうにも恥ずかしい気持ちになってしまう。なんとかして女子更衣室を覗こうと腐心したり、女の子とデートする金をためようと、なんともみみっちい犯罪に手を出してバレてしまったり、かと思えば当時大流行したブルース・リーにすっかりかぶれてしまい、格闘技など習ったこともないくせに跳び蹴りや回し蹴りの練習をしたり、当時放送していた特撮番組「ウルトラQ」「ウルトラマン」などのものまねをして遊んだり――きっと読者のなかの誰もが、ひとつやふたつは身に覚えのあることが書かれていると思うし、きっと今の子どもや若者たちだって、本質のところはたいして変わっていないのではないだろうか。

 とにかく、当時大流行したもののこと、女の子のこと、性欲のこと――お前、それ以外に考えることはないのか、と問い詰めたくなるほど、そこにいるかつての著者=読者の思考は単純明快で、逆に清々しささえ感じられるのだが、とくに文化祭で自主映画を撮ったときの話や、ミステリー小説にかぶれて自分でもミステリー小説を書こうとしたときの体験などは、自分にも大いに身に覚えのあることで、あの頃の気持ちを考えると、一刻も早く自身の記憶を消去してしまいたいほど恥ずかしくなってくる。しかも、小説にしろ映画にしろ、完成したものはたいていどうしようもない失敗作だったりするのだから、目も当てられないとはこのことである。

 そう、本書に書かれている体験談のほとんどは、同時に失敗談であり、自分のアホさかげんを披露する恥ずかしい出来事でもあるのだ。そして、それらの体験が恥ずかしいと思うのは、当時の自分が身のほどもわきまえず、自分を大きく見せようと苦心している姿があまりにも露骨であるからだ。ブルース・リーのものまねをすることも、女の子とHしたいと思うことも、すべてはそこにつながっていく。だが今にして思えば、こうしたバカげた失敗の数々があったからこそ、今の比較的まともな自分がいるのかもしれない、と本書を読み終えて、あらためてそんなふうに思ったりもする。

 誰だって失敗などしたくはない。しかし、人の一生のなかで成功しかない人生などけっしてありえないのもたしかである。そして、若い頃の失敗はまだやり直しがききやすいが、歳をとればとるほど大きな失敗が取り返しのつかないことにつながってしまったりするものである。そんなとき、何度か失敗してはそれを乗り越えてきた人と、それまでまったくといっていいほど挫折を体験したことのない人とでは、やはり大きな違いが出てくるのではないだろうか。そしてそれは、自分がいかにアホになれるか――自分がちっぽけな人間であり、つまらないプライドにとらわれずに生きていけるかどうかにかかっているようにも思える。

 本書の著者は、そういう意味では間違いなく愛すべきアホである。そして、そんなアホな失敗談からしか学べない、人生を生きるうえで何よりも大切なことが、本書のなかにはたくさんちりばめられている。そう考えたとき、本書のタイトルにはいっている「ぼくら」という複数形のなかに、私たち読者も含まれていることを、ほんとちょっとだけ誇らしく思ってしまうのである。(2005.02.11)

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