【講談社】
『アフターダーク』

村上春樹著 

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 今の私たちにとって、「深夜」という時間帯はいったいどんな意味をもっているのだろうか。昔のように電気のなかった時代、太陽が沈めば人々は手元にあるほんのわずかな光のみで世界と対峙しなければならなくなる、圧倒的な闇ばかりが広がっているような時代であればともかく、科学技術の発達が人工の光をいたるところに灯し、夜の世界から闇そのものを追い払いつつあるようにさえ思える現代において、深夜とはけっきょくのところ、昼間の時間の延長上にあるもの、あくまで人間が活動するための時間の一部と化しつある、というのが正確なところかもしれない。じっさい、都会には24時間営業のコンビニエンスストアやファミリーレストランが氾濫しているし、深夜過ぎになってもそんな街の中をさまよう人々の姿は絶えることがない。私はもともと夜更かしするのが苦手で、夜の10時とか11時とかいう時間には寝てしまうのだが、そんな私でも、妙に頭が冴えて眠れないような夜には、寝ること自体をあきらめて、部屋の電気をつけて読書にふけったりもする。

 だが、どれだけ科学技術が発達し、どれだけ人工の光が夜の街を明るく照らし出しても、夜の世界そのものはけっしてなくなりはしない。太陽の圧倒的な光が地上に満ちる昼とは対極に位置する時間――太陽が地平線の向こうに隠れてしまうことで、それまではっきりと見え、区別のついていたものが、暗闇のなかに溶け込んですべて渾然一体とした何かに変えてしまう夜の闇の本質は、人間の力ごときでどうなるものでもないのだ。そして、まったく同じ世界であるにもかかわらず、昼と夜とではまったく異なった一面を見せるというその二重性は、おそらく私たちのなかにも存在しえるものである。なぜなら、ともすると忘れてしまいがちであるが、私たちもまたけっきょくのところ、自然の一部にすぎないからだ。

 本書『アフターダーク』は、そんな深夜の時間帯――真夜中から東の空が白み出すまでの数時間を切り出してきたかのような作品である。いわゆる三人称で語られる物語ではあるが、純粋な三人称ではなく、物語そのものをカメラの目線でとらえる「私たち」なる人称が意図的に組み込まれている。意図的に、という意味は、この「私たち」なる人物があくまで観察者であり、物語を読み進めることはできるが物語そのものに介入することはできない、ようするに本書の展開においていてもいなくてもまったく問題のない人称であるにもかかわらず、あえてその存在を読者に認識させるような書きかたをしている、ということである。それゆえに私たち読者は否応なく、本書に登場する人物たちとのあいだに適度な距離を置いて読み進めざるを得なくなってくる。そしてこのちょっとした違和感は、じつは本書の登場人物の誰もが、人と接するときに多かれ少なかれ感じている違和感でもある。

 なんていうか、自分がそこに含まれていないみたいな感覚なんだ。彼女はすぐ目の前にいるのに、それと同時に、何キロも離れたところにいる――(中略)――要するにさ、僕が何を言ったところで、それは彼女の意識には届かないんだよ。

 家に戻らずにファミリーレストランでただ時間を潰している女子大生、何ヶ月も眠りつづけているその姉、バンドの練習に向かおうとしているトロンボーン奏者の学生、身ぐるみ剥がされた売春婦の中国人、深夜過ぎまで残業しているサラリーマン、深夜のラブホテルに詰めている女たち――いっけんして、何のつながりもなさそうに思えるこれらの登場人物たちが、真夜中という時間のなかで、思いがけない関係でつながったり、もともとあったはずの希薄なつながりをあらためて確認したりする本書のなかで、物語が劇的な展開を迎えることはない。たとえば、ラブホテル内で売春婦の中国人を殴ったあげく、身ぐるみを剥いで逃げた男が誰なのか、観察者たる「私たち」は知っているが、その男が売春婦たちを管理している組織に見つかって、手ひどい報復を受けるということは、少なくとも本書の時間帯のなかでは起こらない。たとえば、ファミリーレストランにいる女子大生とトロンボーン奏者の学生は、じつは以前に姉をつうじて知り合ったことがあるが、本書での出会いにおいて、その関係が急激に濃くなっていく、というようなこともない。

 もちろん、たった数時間の出来事を切り取ったにすぎないものである以上、そこで何か劇的な変化が生じると考えること自体に無理があるのかもしれない。だが、では彼らのあいだでまったく何の変化も起こらなかったかといえば、けっしてそんなことはない。夜の闇が何かと何かの境界線、自分とそれ以外のものを厳密に区別するものを無効化し、何もかもを黒一色に塗りつぶしてしまうように、本来なら眠っているはずの時間に活動しているこれらの登場人物たちは、ふだんであれば見せることのないだろう一面を見せ、またいつもならけっして語ることのない、心の奥底にあるわだかまりをふともらす。彼らは言ってみれば、そうした自分の周囲を覆っている自己防御の壁を少しだけ緩め、なんらかのつながりを再認識しようとしているようにも見える。そしてそれは、本来であれば無防備に眠っているはずの深夜だからこその行為でもある。

 著者の作品のひとつの特徴として、閉じられた世界、世の中の流れとは無関係なところで自己完結している世界を描いていく、というものがある。そこでは現実かそうでないかといった境界線、さらには人間の生と死の境界線といったものさえも曖昧なものであり、そんな世界の中で一人称の「僕」は、基本的に物語の担い手ではあるが、自身はほとんど変化することなく生きていく。静謐で人間的な情熱の希薄な、しかしそれゆえに美しい物語世界――もちろん、本書のなかにもそうした著者ならではの特徴は健在であるが、本書における「私たち」なる人称は、これまでの「僕」という一人称がもっていた、おそらく唯一の属性である「物語の当事者」の地位さえも捨て去ったということを意味する。

 こうして、「僕」の手から離れた登場人物たちは、独自の道を歩き始めることになる。それは物語としてはけっして美しくないかもしれないが、少なくとも「僕」が「私たち」という立場に変化したことで起こりえる、ひとつの動きではある。その変化がいったい何をもたらすことになるのかは、今のところまだ何も言えない。だが、少なくとも本書の登場人物それぞれについて、何かが動き出しそうな予兆を感じることはできる。

 どれだけ長くつづくと思っていても、いつかは夜は明けるものだ。思えば、真夜中から夜が明けるまでの時間をはっきりとさせたことで、本書のなかの時間が刻一刻と変化していることを私たちは認識せざるを得なくなった。時間が流れているという感覚、そして何かが動き出しているという感覚――それは、たしかにそれまでの著者の作品からは感じ取りにくいもののひとつであることは間違いない。はたして、本書が本当に著者の新たな境地となりうるものなのかどうか、それは読者自身に判断してもらいたい。(2006.01.04)

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