【集英社】
『貴族探偵』

麻耶雄嵩著 

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 適材適所、という言葉がある。個人個人の能力や資質を正しく判断し、その能力がいかんなく発揮できるような地位や仕事、あるいは任務を与えてやることを意味する四字熟語であるが、こうした言葉が生まれてきた背景には、現実世界における「適材適所」の困難さというものがある。それは言い換えるなら、今の世の中において、いかに多くのすぐれた才能が発掘されることもなく、無駄に腐っていっているか、あるいはさほど才能もない者が、いかに無駄にその地位にしがみついて離れようとしないか、ということでもあるのだが、それ以前に、誰にどんな才能があるのかなど、じつのところ誰にも判断できかねる、という事実がある。まったく才能がないと思われていた人が、ある職に就いたところ、めきめきと頭角をあらわしていった、という事例はいくらでもあるし、その逆もまたしかりだ。当の本人にさえ、自分にどんな才能があるのかわかっていないことが多く、人というのは、最初から何かの才能があるわけではなく、自身の置かれた環境にふさわしいはたらきをしようという意識の強弱があるだけなのかもしれない、とさえ思うことがある。

 ところで、ミステリーにおける探偵というのは、言うまでもなく難解な事件を解決するために存在するのだが、もしその探偵が何の事件も起こらない、きわめて平穏な日々を過ごしているだけだとしたら、はたして彼は本当に「探偵」と言うことができるだろうか、という疑問がある。また、仮に物事の真相を洞察する能力に秀でている「探偵」がいたとして、殺人事件といった犯罪に常日頃からかかわることができるわけでもなく、そうした部分を管轄とする警察からはむしろ邪魔者扱いされるのが定番である。つまり探偵というのは、警察関係者か、その警察に深い人脈をもっているか、あるいは探偵としての名声を得ているといった特殊な立場でなければ、そもそも謎に接することさえかなわない、というのが実情である。

 探偵がまっとうな「探偵」として活躍するためには、当人の資質以外にも必要な条件がある――今回紹介する本書『貴族探偵』は、探偵がもっともその才能を発揮できる場をいかに提供するかという、これまでのミステリーにおいてあまり意識されてこなかった部分に焦点を当てた作品だと言うことができる。

「どうしてこの私が推理などという面倒なことをしなければならないんだ。雑事は使用人に任せておけばいいんだよ」

(『こうもり』より)

 全部で五つの作品を収めた短編集である本書では、いずれの作品においても殺人事件が発生し、それを「貴族探偵」と名乗る人物が解決に導くという流れを踏襲している。作品内ではけっしてその本名があかされることのない「貴族探偵」は、東京のさる名家の子息で、相当にやんごとない身分の若者として登場する。そしてその登場の仕方が、かなりのインパクトをかかえている。というのも、彼は殺人事件の現場にふらりと登場しては、現場を指揮する警察にいったんはぞんざいな扱いを受けるのだが、直後にその警察の上司から連絡が入り、彼の「道楽」に全面的に協力することを余儀なくされる、というお約束が展開されるからだ。つまり「貴族探偵」は、警察関係者でさえ無視できないほどの後ろ盾をもつ人物として描かれており、また本人もそれを当然であるかのように受け入れていることが強調されることになる。

 そしてさらに驚くべきことに、「貴族探偵」自身は、「探偵」を名乗りながらも自身は何もしない。現場検証や聞き込みといった「作業」は、常に彼の使用人としてそばに仕える者たちの仕事となっている。それはあるときは、いかにも執事然とした年配の男性であったり、あるときは正統派のメイドであったり、あるときはいかつい体格の運転手だったりするのだが、役割はいつも同じである。そしてここまでであれば、いわゆる「安楽椅子探偵」――情報収集を他人に任せ、自分はその情報をもとに推理を展開し、事件を解決に導くというタイプの王道パターンであるのだが、本書の「貴族探偵」の場合、事件の真相解明すら使用人に丸投げしてしまうのだ。ではそのあいだ、彼が何をやっているのかといえば、そこで出会った女性を口説いたり、優雅にティータイムを楽しんでいたりするだけなのである。

 文字通り、生まれたときから高い身分をもつ者として育てられたことを匂わせるその立ち居振る舞い、とくに、自分以外の誰かを自分と対等と見ていないことを露骨に示す態度は、けっして読者に良い印象を与えるものではない。じっさいに彼は、自分の使用人をことあるごとに「自分の道具」と明言しつづけている。しかも、「探偵」を名乗りながらもそのすべてを使用人まかせにしており、おそらく彼自身には探偵としての資質が皆無であろうことは、本書を読み進めていくと自然と推察されることである。しかしながら不思議なことに、その彼を「御前」と呼ぶ使用人たちは、彼に全幅の信頼をよせて付き従っているという事実がある。しかもその三人の使用人は、使用人としての質の高さはもちろんのこと、探偵としてのスキルも超一流である。

 もしミステリーとしての要素を考えるならば、探偵役としては上述の使用人の誰かひとりいれば充分ということになり、事件解決に何の役にも立っていない「貴族探偵」は不要なキャラクターである。にもかかわらず、本書に他ならぬ「貴族探偵」というタイトルが冠されているのは、この作品における彼の存在――彼に与えられた役割が大きなテーマとなっているからに他ならない。そこまで考えたときに、はじめて「貴族探偵」の役割に深い意味が込められていることに気づかされる。

 繰り返しになるが、彼は少なくとも警察関係に対して強力なコネクションを持ち合わせている。ゆえに、多少強引な方法ではあるものの、殺人事件に対して私用で介入するだけでなく、警察の全面的な――少なくとも表面上は全面的な協力を仰ぐこともできる。つまり彼は、「自分の道具」たる三人の使用人兼探偵に、彼らの活躍するにふさわしい場を提供するだけの力をもっているのだ。そしてさらに言うなら、「貴族探偵」は少なくとも使用人たちの探偵としての能力に全幅の信頼を置いている。彼自身には、探偵としての能力はない。だが、まるでその能力が自分のものであるかのように、「貴族探偵」は常にこう言い放つのだ。「謎は全て解けました」「貴族探偵に二言はないよ」と。

 こうした言動は、ちょっとやそっとの信頼関係では成り立たない。ふつうに考えればわかることだが、自分で考えたことでもない事柄に対して、そのすべてを預けるというのは相当に勇気のいることだ。もし使用人たちの推理が外れていれば、その全責任は「貴族探偵」が負わなければならない。だが、自分の道具のごとく動く使用人たちに、そんなことはあるはずがないことを彼は知っている。このある種の豪胆さこそが、本書最大の魅力と言っても過言ではない。そしてそれは、他ならぬ自分の能力の限界、自身に与えられた役割を冷静に把握し、分を弁えた態度をとれるということでもある。これぞ「貴族」と言わずして、誰を貴族と言えるだろう。

「探偵の使命は事件を解決することです。過程は問題ではありませんよ。それに彼らは優秀です。きっとあなたの役に立つ情報をもたらしてくれるでしょう」

(『春の声』より)

 探偵が謎を解くというのは、ミステリーにおいてなくてはならない要素である。だが、探偵を名乗りながら自身は指一本動かさず、しかしながら探偵としての高度なスキルを持つ者たちに、その能力を存分に発揮する場をあたえてやるというアプローチで、ミステリーというジャンルに切り込んだ本書は、これまで想像もしていなかったミステリーの可能性を私たちに提示してくれている。そういう意味で、本書はすごいミステリーである。ぜひ一度、「貴族探偵」の矜持の一端を感じとってもらいたい。(2013.12.01)

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