【早川書房】
『エイダ』

山田正紀著 



 『エイダ』を読む人間は、充分に気をつけなければならない。安易に読みすすめていくと、現実と物語の境目にたやすく落ち込んでしまい、そこから這い上がってくるのは容易なことではないからだ。最悪の場合、永遠に現実と物語の境界線をさまようことになるかもしれない。たとえそうなっても、私はいっさいの責任を負わないからそのつもりで。

 本書『エイダ』は、"ハザールハッド"という語り部に"アジダハーク"という悪魔が長い長い物語を語って聞かせるところからはじまる。その最初の構造だけを見ると、『千夜一夜物語』を思い出す人もいるかもしれない。だが、その構造は『千夜一夜物語』のような単純な入れ子構造の繰り返し、というわけではない。『エイダ』はじつに複雑な物語構造をもっている。あまりに複雑なので、一読しただけでは理解するのが難しいかもしれない。
 『エイダ』の基本は、二つの物語だといえる。ひとつは19世紀のイギリス。あの大文豪チャールズ・ディケンズが生きた時代に、ひとつの物語が生まれる。題名は『フランケンシュタイン』。メアリ・シェリーが書いた、科学の力で人間を造るという、あの有名な話だ。メアリはその物語を書いたあと、自分の子供や夫、知人や父親を次々と亡くしてしまうが、彼女はその原因を、自分の生み出してしまった「フランケンシュタインの怪物」のせいだと考える。フィクションのなかのものにすぎないその怪物が、著者の現実に現われて、彼女を不幸にしている、というのだ。メアリはディケンズにこう言う。

「わたしはあなた様がおっしゃるほど"現実"とフィクションの違いが大きいものだとは考えておりません。いえ、場合によっては、フィクションのほうがはるかに"現実"よりも力を持っている、とそう考えているのです。ときにはフィクションは"現実"の壁を突き破って、この世に噴出してくることがございます。フィクションが"現実"を変えてしまうこともあるのです。(後略)」

 もうひとつの物語は、ここからはるか未来、ナノ・テクノロジーの発達により量子コンピュータが開発され、量子力学におけるエヴァレッタの"並列宇宙論"がたんなる理論から現実のものとして人類に提示されることになった時代。そこでは量子コンピュータによってワープ航法が可能になり、さらには時間旅行さえできるようになるのだが、そのため量子コンピュータ内部で無限に並行世界が増殖することになり、それが現実世界に影響をおよぼさないよう管理するカンタム・コントロールという組織が機能している。しかし、あるオペレータが並行世界に手を加え、新しい現実を創造してしまったため、量子コンピュータが無限に現実を創造するモンスターと化してしまう。
 本書を読んでいくと、まず前者の19世紀イギリスの物語と、それとは何の関係もない(ように思われる)複数の物語が同時進行の形で繰り広げられる。後者の未来の物語は、全体の流れの後半にならないとその全体像が見えてこない。まず、五体譲(ごていゆずる)という謎の人物の形で、それぞれの物語に介入してくるだけだ。そして、19世紀イギリスの物語のなかに生まれた「フランケンシュタインの怪物」もまた、それぞれの物語に微妙な影響を与える役目を負わされている。本書の構造が難解なのは、上述したふたつの物語がそれ以外のすべての物語、つまり暴走した量子コンピュータが生み出す並行世界での話のなかに、それぞれの形でからみあっているからにほかならない。そしてからみあうことで、それらの並行世界がしだいに別の並行世界とねじれてつながりを持つようになったり、ひとつの並行世界の話がふたつに分岐したりするため、ますます構造は複雑になっていく。
 語られた物語がその語り手の現実を侵食することでひとつの物語に変えてしまい、さらにその外側の現実へと侵食していく『フランケンシュタイン』、そして暴走した量子コンピュータが無限に生み出していく並行世界……。いったい、現実と物語の違いはなんなのだろうと読者は考える。だが、本書のなかでその問いを考えるのは無意味だろう。すべての物語は語られたという事実をもってすでに現実であり、すべての現実は人間が主観から逃れられないという事実をもってすでに物語なのだ。
 だとすると、五体譲も「フランケンシュタインの怪物」も、現実と現実、物語と物語の境を永遠にさまよいつづけなければならなくなる。結末はあっけなく入れ替わり、それまであった現実が消滅し、仮定でしかなかった物語が現実として動き出す。そんな世界を生きるのに、真の現実などというものに何の意味があるだろうか。そういった意味で、本書はけっして終わることのない「はてしない物語」であると言えるだろう。

 もう一度、忠告する。『エイダ』を読む人間は、充分に気をつけなければならない。安易に読みすすめていくと、現実と物語の境目にたやすく落ち込んでしまい、そこから這い上がってくるのは容易なことではないからだ。最悪の場合、永遠に現実と物語の境界線をさまようことになるかもしれない。
 だが、仮に「確かなものは何もない」世界にあっても生きていける、という自信のある無謀な読者がいるとすれば、私はあなたが『エイダ』を読むのを止めはしない。もっとも、それであなたが今後、どのような運命を歩もうと私はいっさいの責任は負わないからそのつもりで。(1998.12.20)

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