【小学館】
『謎解きはディナーのあとで』

東川篤哉著 
2011年本屋大賞受賞作 



 自分にとって常識だと思っていた事柄が、別の人たちにとってはきわめて特殊な事柄だと認識されているという現象は、よくあることではあるのだが、それがその人にとって意識することさえない常識と化しているがゆえに、なんらかのきっかけがなければその違いに気づかないまま過ごしてしまうことも、人生においてままあることである。たとえば私はもともと北陸地方の出身で、スーパーに新鮮な魚介類が並ぶようなところに住んでいた。ゆえに、夕食のおかずとして刺身が出てくるのは、当時の私にとってごく普通のことという認識があった。それがけっして普通でないということに気づかされたのは、上京して独り暮らしをはじめてからのことである。

 すべての人間が生まれながらにして平等だというのは、良くも悪くも幻想にすぎず、人は多かれ少なかれそれぞれの生まれ育った環境の影響を受けずにはいられない。日本人にとって靴を脱いで家にあがるのが「常識」であるように、アメリカ人にとって靴を履いたまま家にあがるのが「常識」だ。もちろん、すべての日本人が靴を脱いで家にあがることを「常識」としているわけではなく、アメリカ人についても同様であるが、今回紹介する本書『謎解きはディナーのあとで』は、そんな「常識」をある意味デフォルメ的に強調することで、ミステリーとしての面白さをいかんなく発揮することに成功した作品である。

「失礼ながら、お嬢様」影山は麗子の傍らにかしこまり、どこまでも真面目な口調で、こう言い放った。「こんな簡単なこともお判りにならないなんて、それでもお嬢様はプロの刑事でございますか。正直、ズブの素人よりレベルが低くていらっしゃいます」

(『綺麗な薔薇には殺意がございます』より)

 本書は六つの短編を収めた連作短編集としての体裁をとっており、それぞれの短編で引き起こされる殺人事件について、国立署の女性刑事とその関係者である青年がその真相を推理するというパターンとなっている。いや、もう少し詳しく説明するなら、刑事として事件にかかわることになった宝生麗子からの話を受けた影山が、事件にかんする情報をもとに推理を展開するのであり、ミステリーの構造としては影山こそが物語の中心として機能しており、麗子はあくまで情報を収集するワトソン役を担っているにすぎない。しかしながら、物語内の現実においてはこの主従関係が逆転している。つまり宝生麗子は正真正銘の「お嬢様」――複合企業「宝生グループ」の総帥、宝生清太郎の娘であり、影山はそんな宝生家に仕える執事兼運転手、麗子の忠実なしもべという立場にあるのだ。

 世間的には主従関係にありながら、事件の真相を推理する場面になるとその関係が逆転するミステリーというと、田中啓文の『ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺』における笑酔亭梅寿と星祭竜二を思い出すが、事件を推理する竜二があくまで師匠を立てようとしているのに対し、本書の影山はふだんこそ絵に描いたような執事像を演じていながら、いざ謎解きをするさいには、完全に自分が上であり、主導権を握っていることを宝生麗子に意識させるような振る舞いをあえて行なう。その最たる例こそが上述の引用部であるが、このあたりの面白さは、ふたりのそれぞれの立ち位置である「お嬢様」「執事」という記号が、デフォルメされているがごとく強調されているからこそのものである。

 たとえば影山の馬鹿丁寧な口調や振る舞いは、いかにも執事という人種が使いそうだと私たちが想像するたぐいのものであるし、ダークスーツに銀縁の眼鏡というアイテムもまたしかりである。いっぽうの宝生麗子については、刑事というお堅い職業についている関係上、ふだんは大企業の令嬢であることを隠して仕事をしているが、バーバリーの高級パンツスーツやアルマーニの眼鏡といった高級品をさも普段着であるがごとく着こなすという時点ですでに一般市民とはレベルが違っている。もっとも、麗子の「お嬢様」としてのデフォルメ感は、彼女の上司であり、彼女と同じく大企業の御曹司にあたる風祭警部の存在によって、嫌味にならない程度に抑えられているのだが、ここで注目すべきなのは、そうした麗子の「お嬢様」気質が、ひとつの必然として彼女を事件の真相から遠ざける役割もはたしている、という点である。

「――お嬢様がブーツを履いてお出かけの途中、洗濯物を取り込むのを忘れていたことに気づき、自宅に引き返したといたしましょう。玄関を入ったお嬢様は、そこでどうなさいますか」
「決まってるじゃない。影山を呼びつけて、『洗濯物を取り込んで』と命令するわ」

(『殺人現場では靴をお脱ぎください』より)

 本書のミステリーとしての要素は、ある登場人物の「常識」と、一般市民としての「常識」とのギャップによって生じているところが大きい。この「ある登場人物」とは、ときには宝生麗子であり、ときには別の人物だったりするのだが、これは逆に言えば、お嬢様や御曹司といった特殊な人々でなければ、謎は謎とならなかった可能性があることを示唆している。じっさい、謎解きがされてしまえば大半の読者が「ああ、確かに」と納得してしまうものばかりである。そして本書を読み終えてあらためて思うのは、アイディアとしてのミステリーのトリックというのはもはややり尽くした感さえあるものの、視点を変えることによっていくらでも斬新なものとして読者に提示することが可能なのだということである。

 毒殺トリックや密室殺人、ダイイングメッセージなど、古典的とも言える要素を取り入れながら、麗子と影山のユーモア溢れる言葉のやりとりや、ここぞとばかりに発揮される影山の毒舌によって、これまでとは一風異なるミステリーの世界を構築した本書は、まさに軽く一服したいような時にはうってつけの作品である。(2011.09.06)

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