【幻冬舎】
『アビシニアン』

古川日出男著 



 物語――それは私がもっとも好きなフレーズのひとつであり、また私が読書という行為の中に求めつづけている大きなテーマでもあるのだが、いったい、いつから物語は文章という形をとって現われるようになったのだろうか。あるいは、こんなふうに問いなおしてもいいかもしれない。私はいったい、いつから本の中に書き綴られたものに「物語」がある、と信じて疑わないようになったのだろうか、と。物語の基本が「語る」ことにある、というのは、単語そのものの意味にも含まれている、あたり前の事実だというのに。

 私たちは今でこそ、当然のように「読み書き」を習い、文字で書かれた情報を理解したり、自分の考えを文字にして多くの人に伝えたりしているが、人類の歴史において、「文字」という道具は長いあいだ、ごく一部の知識人たちの特権であった。時が経つにつれ、ますます煩雑になっていく社会に適応するかのように、より大量の、より複雑な情報を長く、正確に記録しておくために生み出された「文字」――私たちがよく知っている人類の歴史とは、言うなれば人類が文字を獲得してから記録されてきたものの集大成でもあるのだが、文字が長らく特権的なものであった以上、歴史もまた、その特権を有する者たちのほんの一面を表現するものでしかない。そのことを、私たちはあらためて思い出す必要がある。

 人間は「ことば」を持っている。「ことば」を用いて、お互いにコミュニケーションをはかる。そんな生き物だ。だが、「ことば」をもっているのは、なにも人間だけではない。「文字」という記号は人間だけのものだが、「ことば」は違う。そして、「ことば」はけっして「文字」に従属したりはしない。そういう意味では、本書『アビシニアン』は「ことば」をめぐる物語だと言ってもいいだろう。「文字」という名の束縛から解放された、ある男女の愛の物語……。

 本書のなかに流れる物語の内容を紹介することに、いったいどれだけの意味があるのだろう――いっぽうには、少女がいる。中学校の卒業式のあと、それまでの環境のいっさいすべてを捨て、中野区の都市公園、いまだ原生林が残る「バード・サンクチュアリ」にやってきた少女。彼女はそこで、かつて深い絆で結ばれた自分の飼い猫であり、今ではバード・サンクチュアリの野良猫となった一匹のアビシニアンとともに生きることを決意する。

 彼女にとって、それまでの環境のすべてを捨てる、というのは、文字どおりの「すべて」を捨てることを意味する。それは究極的には、「ことば」を「文字」というシンボルに変換する社会の中で、その象徴的意味への妥協をいっさい許さない生き方を選ぶ、ということでもある。本書のなかには、驚くほど固有名詞がない。アビシニアンにはもちろんのこと、少女はその一人称のなかで、けっして自分の名を名乗らない。もし、「文字」というものが彼女にとって、何の意味もないものだとすれば、自分を他者と区別するための名称もまた、彼女には無意味なものである。本書にはそうした、徹底した「文字」への叛逆の雰囲気がある。

 いっぽうには、少年がいる。いや、大学生だから、あるいは青年と呼ぶべきかもしれない。彼は「文字」と格闘する者だ。正体不明の光の氾濫が引き起こす、強い偏頭痛、そして、自分だけが感じるこの理不尽な敵意に満ちた世界をなんとか意味づけしようと、ひたすら「文字」を書き連ねていく少年。彼はたったひとりで、ただ自分のためだけの「対話篇」を書く。それは、けっして誰の目にも触れることのないシナリオのはずだった。だがある日、彼はあるダイニング・バーで、ひとりの女性と出会う。

 エンマ――それが彼女の名。彼女は文字を読むことができない。文字非所有者であるエンマの前で、彼は物語を語る語り部となる。そして彼もまた、「文字」のない世界へと導かれていく。

 ことばは生命をもち無限の力をもつ。エンマの口から発せられる、その、ことばは。それは文字をもたない。エンマは舌をもちいて語ることによって、ぼくのなかから物語をひきだした。そのことばにたいする、信仰が、ぼくの心裡に生まれる。

 思えば、古川日出男ほど、まぎれもなく「文字」で物語を綴る人でありながら、「文字」というシンボルで物語が固定されることに反抗しようとしている書き手はいないだろう。常に変容をつづける物語――それを実現させるために、著者は本書の次に出した『アラビアの夜の種族』では、その存在そのものを「日本語訳版」という立場に置く、という離れ業をやってのけた。「文字」を所有することを拒んだ人間が、その記憶に融けこました、語ることによって自走していく物語は、おそらく語るたびにそのディテールが変化していくはずだ。そしてそれこそが、それまで長らく私たち人間のあいだで伝わってきた、本物の物語の姿であることに気づく。

 それをもっとも端的に示す例が、本書のなかにひとつだけある。彼が生物学の試験を受けるときの場面である。彼はよりによってその試験の最中に、例の発作の前兆に陥ってしまうのだが、生物学の教授は彼を試験会場から連れだし、本格的な発作が起こるまでのわずかな時間を使って、彼だけの口述試験を行なうのだ。

 それは、まぎれもなくその教授にとってはイレギュラーな出来事だったに違いない。だが、教授は何の用意もなく、彼のためだけの試験を口述でおこなうことを決める。その教授にとって、生物学とはどのような形をもってしても語ることのできる「物語」に他ならない。「文字」から「ことば」への変容――それは言いかえれば、知識の暗記ではなく、まぎれもない自分の一部となった知恵への変容でもある。そして人はおそらく、詰め込んだ知識だけでは何も語ることはできないのだ。

 エンマは彼の語りに耳を傾ける。そしてエンマもまた、自身の物語を彼に語って聞かせる。そこにいったい、どのような形の愛が存在しうるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2003.02.10)

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