【新潮社】
『悪女について』

有吉佐和子著 



 私が木嶋佳苗という女性が引き起こしたとされる事件のことを知ったのは、ノンフィクション作家の佐野眞一をはじめとする著名人が、彼女自身のことに興味をいだき、そのことについて執筆されたものを読んだことがきっかけである。インターネットの婚活サイトを利用して何人もの男に近づき、金を貢がせる婚活詐欺を繰り返したとされる木嶋佳苗は、そのなかの三人の男性の不審死について殺人罪に問われ、2012年4月にはさいたま地裁で死刑判決を受けているが、とかくその容姿と結婚詐欺というギャップばかりが取り沙汰されるなか、執筆者たちが一様に彼女自身の動機や内面のほうに迫ろうとしている点にふと興味をおぼえた。

 一連の事件がすべて事実だったとして、その動機を「金のため」だとひとくくりにするのは簡単であるし、じっさいに裁判の傍聴記録をまとめたものを読むと、じつにさまざまな嘘によって塗り固められていた経歴も見えてくる。しかし、たんなる詐欺師が、嘘がばれそうになったからという理由だけで相手を殺すというのはあまりにも極端にすぎる。木嶋佳苗の事件がどのような結末を迎えるのかはまだわからないし、私にその真実が見抜けるわけもないのだが、ひとつわかることがあるとすれば、仮にすべての事実が明らかになったとしても、彼女の心の内までは見えてこない――虚飾をすべて剥ぎとった後に残されるはずの、真実の彼女の姿がいっこうに見えてこないという一種の「不気味さ」である。

 今回紹介する本書『悪女について』を読み終えた私が、上述の事件のことをまず思い出したのは、この作品に登場する富小路公子という女性について、似たような「不気味さ」を感じとったからに他ならない。その人生において彼女とかかわることになった二十七人の登場人物へのインタビューという形式で進んでいく本書であるが、読み進めていけばいくほど隠された事実がおぼろげに見えてくるいっぽうで、富小路公子という女性については、その内面や心情がはっきりしてくるどころか、ますますつかみどころのないものとして読者の目をくらませてしまうのだ。

「数学と法律と、よく似てるのよ。どちらも、人間の思うようになるわ。8という字を数限りなく書き並べて大きな桁数に仕上げても、それに0を掛けると0になってしまうの。面白いでしょう? 法律も同じみたいよ。いろいろな事実をどんなに積み重ねても、一人の人間の意志で0にしてしまうことも出来るし、本当に面白いわ」

 この作品の骨子となっているのは、言うまでもなく富小路公子という女性の存在である。しかしながら、その当の本人の談話はここでは出てこない。凄腕の女実業家としてマスコミにおおいに持てはやされ、敗戦によって没落していった華族や資産家を尻目に、湯水のように金をふりまいて多くの人々の賞賛を受けるいっぽう、たんなる嫉妬か真実か、そうとうにあこぎな商売をして多くの関係者を不幸にしてきたとも噂されていた彼女は、ある日イブニング・ドレスを身にまとってビルから転落死してしまっているからだ。そして週刊誌などのメディアでは、その数々のスキャンダルを暴露するという形で、彼女を稀代の悪女として取り上げている背景がある。

 つまり、本書のインタビュー形式には、登場人物として出てくることはないものの、そのインタビュアーである人物が、メディアの印象操作からは見えてこない富小路公子の真実の姿に迫っていこうとする意思が感じられる。あるいはそこには、彼女の死の真相をあきらかにできるかもしれない、という思惑もあり、自殺か他殺かもはっきりしないという謎に対するミステリーとしての要素も、本書の読みどころであることは間違いない。だが繰り返しになるが、そんな多くの謎に包まれた富小路公子という人物を、その関係者たちのインタビューによって重層的に浮き彫りにしようとする試みは、ついに果たされることはないと言うことができる。もっとも、それは著者の技量不足から来るものではなく、ひとえに富小路公子という人物の、それこそがひとつの強烈な個性として息づいているからに他ならないからであり、あくまでその輪郭をなぞるにとどめておくという著者の強い意図がたしかにある。

 たしかに、二十七人のインタビューを比較検討することによって、富小路公子という人物像が多くの虚飾によって成り立っていることが見えてはくる。たとえば、彼女の本名は鈴木君子であり、八百屋を営む母親タネの娘であることが、タネ自身へのインタビューで語られるわけだが、それ以外の関係者のインタビューのなかで、彼女が自分は孤児であり、母親はあくまで育ての親であって、本当は没落した華族の出身なのだと語っていたことが明らかになる。また彼女は少なくとも四人の男性と関係をもち、彼ら全員に自らが妊娠した子どもを相手の子だと語って、最終的には多額の手切れ金や援助を引き出すことにまんまと成功しているという事実も見えてくる。

 不動産バブルを見越して土地を転がし、利益を得るという先見の明をもっていたり、レストランや宝石店を経営して確実に利益を上げたり、会員制の女性用高級エステといった新事業を立ち上げたりといった手腕の持ち主であるいっぽう、資産家のもつ高価な宝石をひそかにイミテーションにすり替えたり、高価な宝石を割引すると見せかけて偽物をつかませたりといった詐欺行為を繰り返していた富小路公子に対して、殺意に近い憎悪をたぎらせる者もいることはいるのだが、不思議なことにインタビューを受けた相手の大半が、彼女に対して好意的な印象を崩してはいない。むしろ、週刊誌の暴露記事に対して「彼女がそんなことをするはずがない」「彼女は悪女などではない」と憤慨してみせるのだ。そしてさらに驚くべきことに、彼女の女としての美貌にまんまと騙されたあげく、離婚したり慰謝料を払うことになった男たちでさえ、いまだに富小路公子との関係を自慢していたり、未練を募らせていたり、自分の人間としての器が小さいせいだと嘆いたりすることはあっても、彼女を悪女として責めるようなことをしないという事実である。

 まるで、富小路公子という人格が何人も存在するかのようにさえ見えてしまうほど、彼女に対する関係者の捉え方はじつに多種多様であり、それだけ彼女が振りかざした虚飾の巧みさが際立つ本書であるが、逆に言うなら、彼女はそれだけ相手に対して、虚飾としての自分自身を信じ込ませるために多くの労力を費やしてきたということでもある。それこそ、自分が八百屋の娘ではなく、華族の血族に位置するものだという、まるで物語のようなストーリーこそが真実であると、自分自身が深く信じ込んでいたふしさえある。だからこそ、その事実を突きつけられてなお、平然として揺るがない彼女の姿が見えてくる。だが、年月の経過とともにそれがどれだけの負担を彼女に強いることになったのかは、病院関係者のインタビューなどからもおのずと見えてくる。

 はたして富小路公子とは何者だったのか、そしてその死の真相は何なのかという点について、はっきりしたものは見えてこないのだが、それでもひとつの傾向は見て取ることができる。それは、彼女が宝石などの美しいものをとりわけ好んでいたという点だ。インタビューのひとつに、とある宝石職人のものが書かれているのだが、そのなかで彼は、彼女のことを「まるで宝石をはめるために生れたよう」だと評している。これと似たような内容は、服飾デザイナーである林梨江のインタビューにも出てくるのだが、これは少なくとも彼女の容姿が、男女関係なくこのうえなく美しいものとして映っていたという事実を意味する。そしてその傾向は、彼女自身がよく口にしていた「清く美しく生きる」ことや、金儲けの秘訣としてひたすら「愛」という言葉を繰り返していたという流れにもつながっていく。

 少なからぬ嘘と虚飾にまみれた彼女の人生とは、まるで正反対のように見える「清さ」や「美しさ」への執着について、あるいはこんな考えがあったのではないか、とふと考える。彼女はその容貌としての美しさゆえに、「鈴木君子」という本来の自分ではなく、きらびやかで光り輝く存在としての「富小路公子」のほうこそが本当の自分であると信じようとしたのではないか、と。そしてその美しさを真実のものとして維持するためにこそ、本物の宝石で着飾ることに執着していたのではないかと。彼女にとって事実というのは、意志の力でいくらでもゼロにすることができる程度のものでしかなかった。だからこそ、どれだけ多くの嘘を重ねても、そこに罪悪感など生まれるはずもないのだ。だが、そんなふうに光り輝く部分だけで自分を着飾っていく人生というのは、誰にもその裏側を見せるつもりがないという意味で、このうえなく孤独なものでもある。

「おじさん、人間も宝石も同じだと思うのよ。生命が輝くには、清く正しいことをしてなくちゃ」

 物事の真実というものは、暴いてしまえば大抵はつまらないことだったり、取るに足らないものだったりする。世のなかがけっして綺麗事だけで成り立っているわけではなく、むしろ目を背けたくなるような醜悪さやおぞましさといったもので溢れているとするなら、そんな真実をあえて見据えるよりも、美しくてきらびやかな虚飾こそが真実であると錯覚するほうが、むしろ生きていくうえで幸せなことではないか、という考えが生まれてきたとしてもさほど不思議なことではない。はたしてあなたは、この富小路公子という女性の生き様にどのような思いを抱くことになるのだろうか。(2013.01.08)

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