【早川書房】
『あなたに不利な証拠として』

ローリー・リン・ドラモンド著/駒月雅子訳 



 システム開発という場に身を置いていると、ときどき「機械で制御されていることがなぜ間違えるのか」という疑問を投げかけられることがある。たしかに、機械はけっして間違いを犯すことはない。より正確に言うなら、機械には物事の正誤を判断する力はない。それらは、ただプログラムされたことを忠実に実行するだけである。もし、その結果に何らかの間違いがあるとすれば、それは機械やシステムをつくった人間の設計ミスか、それを操作する人間の操作ミスか、あるいは結果を判断する人間の手違いということになる。いずれにしても明らかなのは、間違いを犯すのも、物事の正誤を判断するのも、人間だということである。

 人間である以上、ただの一度も間違いを犯さない、失敗しないなどということはけっしてありえない。だが、たとえば医療にたずさわる人のミスによって命を失うことになった患者や、警察の誤った判断によって冤罪の受難を背負った人にとっては、「間違いでした」では済まされないものがある。それが人間の生死にかかわることであればなおさらだ。システム開発にしろ、医者にしろ、警察にしろ、その道のプロである以上、外部の人間としては常に正しい仕事をしてほしいと願っているし、またそれができてあたり前だという思いもある。だが、私たちの生きる現実は、小説のようにすべての謎があきらかになり、物事の真実がわかりやすい形で提示されるとはかぎらないし、またあらゆる努力がそれ相応の形で実を結ぶわけでもない。そんな厳しい現実をあらためて考えたとき、私たち人間にできるのは、なんであれその結果を受け入れて生きていくことだけなのかもしれない、と思うことがある。

 なぜ彼が発砲しなかったのかは謎だ。だがわたしたちの仕事に起こること、あるいは起こらないことの多くが謎なのだ。
 そして、運次第なのだ。

 本書『あなたに不利な証拠として』は、ルイジアナ州のバトンルージュ市警に勤める五人の女性警官に焦点をあてた短編集である。犯罪者を逮捕することに特化したプロ集団である警察という組織が、えてして男尊女卑の古臭い体質に染まっているという現実は、たとえば大沢在昌の『天使の牙』や乃南アサの『凍える牙』といった小説でもとらえられていることであり、だからこそそんな世界のなかで生きるストイックな女性警官の姿は、ひとつの人間ドラマとして成立する要素をもつことになるが、本書の女性警官たちが、その物語のなかで陥ることになる逆境は、どちらかというと彼女たちが女性であることの事実よりも、彼女たちが人間であるという事実を思い起こさせるものが圧倒的に多い。そして、ここでいう「人間である」ことというのは、そのまま「人間の生死」に直結していく事実のことでもある。

 たとえば、女性警官のひとりであるキャサリンはかつて、強盗事件の犯人である男性を射殺した経験をもっている。それは、犯人と対峙した彼女が命の危険を感じたがゆえの行動であり、マスコミも市警も彼女の発砲が正当なものであると判断したが、そのいっぽうで、彼女の夫であり、また彼女と同じ警官だったジョニーは、似たような事件に遭遇し、そして命を落としている。そのときジョニーは勤続17年のベテランであり、キャサリンは当時は新米だった。

 なぜキャサリンは生き残り、ジョニーは殉職したのか――そこにはおそらく、明確な答えなど存在しないし、答えを求めること自体、意味のないことでもある。そしてこの、ある意味不条理な現実を、何も加工することなくそのまま読者の目の前に提示することこそが、本書の大きなテーマのひとつである。本書はたしかに警察小説ではあるが、ここに登場する女性警官たちは、自分たちが遭遇する事件に対して、けっしてその謎を解明する「探偵」としての役割を与えられることはない。それゆえに、たとえば物語のなかで起こった事件が未解決のまま放り出されるという状況も、しばしば発生することになる。

 キャシーがまだ見習い警察官だったときに遭遇し、それから六年後に再調査の依頼を受けてふたたびかかわることになる殺人未遂事件などは、その典型的な例である。この短編のなかで、被害者であるマージョリーを襲った犯人が誰なのかは、けっきょく最後まで不明のままなのだが、重要なのは犯人が誰なのか、ということではなく、どれだけ優秀な刑事であっても事件の全容を見誤ることがある、という事実である。殺人未遂事件が、なぜマージョリーの自殺未遂へと歪められていったのか――そこにはとくに、個人的な情報操作の意図はなく、誰もが物事の真実を見極めようとしていた。にもかかわらず、真実は変貌し、キャシーはそのとき、その事実をなすすべもなく見送ることしかできなかった。

 警察組織もふくめた法曹界というのは、基本的には法という論理がすべてを支配する世界である。だが、私たち人間の言動のすべてが、論理によって説明できるのであれば誰も人生に苦労することはない。警察はたしかに法の番人であり、公僕であるが、それ以前に個人の感情をもつひとりの人間であるという事実――その圧倒的な事実が、この短編集のなかには満ち溢れている。

 当人の過失とはいえない、災害のような交通事故によって足に障害の残るほどの大怪我を負ったリズにしろ、優秀な警官だった父親の、けっして良き親ではなかった部分への殺意ゆえに不安定な情緒をかかえるモナにしろ、あるいは警官であるにもかかわらず、言い訳のできない理由によって自ら大きな罪を犯してしまうサラにしろ、彼女たちは起こってしまった――あるいは起こしてしまった過失や事件について、それはすでに取り返しのつかない事柄であることを自覚したうえで、なおそれをかかえて今という時間を生きようとしている。その事件によって彼女たちが選んだ選択はそれぞれ違ってはいても、共通しているのは、人間の生死に直結する警察という職がもつ論理性と、それとは対極に位置する自身の人間としての感情とのせめぎあいによって、ときに引き裂かれそうになるか弱い心の動きである。そして、まさにその人間臭さゆえに、読者はそんな彼女たちの姿に少なからず自身の心を動かされることになる。

 本サイトの書評を通じて何度も同じことをくり返してきたが、私は犯罪者が嫌いである以上に、警察の人間が嫌いでもある。彼らはけっして事件が明確な形で表面にあらわれないかぎり、行動を起こそうとはしないし、そのときには犯罪被害者にとってはすべてが手遅れである可能性がきわめて高い。だが、彼らもまた私たちと同じく不完全な人間であり、ときに人のその後の人生を大きく変えてしまう力をもつ職業であるがゆえに、常に慎重すぎるくらい慎重な行動を心がけざるをえず、にもかかわらず、本書のようにしばしばぎりぎりの選択を迫られることがあるという事実に目を向けたとき、私は少しだけ、警察官に対する認識をあらためなければならないと感じるようになっていた。そして本書は、たしかにそれだけの力を秘めた作品だということである。(2006.07.14)

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