【岩波書店】
『悪魔の涎・追い求める男』

フリオ・コルタサル著/木村榮一訳 



 たとえば、鏡というものの原理は光の反射作用であって、けっして鏡のなかにもうひとつの世界、もうひとりの自分が存在するというわけではない。だが、そうした科学的原理が知れ渡っている現代においても、なお鏡にまつわる怪奇話や都市伝説は数多い。それは、鏡の性質として「光の反射」という言葉よりも、「覗き込んだ者の姿を映し出す」という視覚的効果の不思議さが私たちにとって際立っているからであるが、見方を変えれば、鏡を覗き込むという行為は、人間が人間であるがゆえの業を端的に映し出すものとも言える。それは、何かと何かを区別し、境界線を引くという業である。ここでは、自分が本来いる世界と、鏡の中の世界という区別が発生することになる。

 夢についても同じようなことが言える。人は眠っていようが起きていようが現実世界のなかにいて、自分という存在もまた確固として存在しつづけている。だが、眠っているときの私たちの意識はときに、あたかも夢のなかの世界というものが存在するかのような判断をし、まるで肉体をともなう自分が夢の世界に移動してきたかのように思い込んでしまう。ここでも私たちは、いつのまにか「現実世界」と「夢の世界」という区切りをつけてしまっているのだ。じっさいには、夢というのは私たちの意識の断片にすぎないにもかかわらず。

 私たち人間は世界のあらゆるものを分析し、名前をつけ、それらを自分たちの側に属するものとして飲み込んでいくことで世界を秩序づけ、発展を遂げた。名前をつけるというのは、わけのわからないもの、未知のものに対して厳密な境界線をもうけ、区別をするという行為だ。そうすることで、それまで見えていなかったものが見えるようになり、確固とした存在として立ち上がってくることになる。だが、それは逆に言えば、何かと何かを区別しているのは、あくまで私たち人間の都合であって、そうである以上、私たちが認識している、あくまで人間本位の世界というのは、たんに言葉の約束事でしかなく、私たちが思っているほど磐石というわけではない。では、私たちにとっていったい何が確かなものだと言えるのだろうか。

 今のぼくなら、あの時書いたことは間違いだとはっきり言いきれる。ジョニーは追われているのではなく、追い求めているのだ。彼は生活の中でいろいろな事件に見舞われるが、あれは追いつめられた動物に起こることではない。獲物を追う猟師の身にふりかかる思いがけない出来事なのだ。

(『追い求める男』より)

 今回紹介する本書『悪魔の涎・追い求める男』は、表題作2作を含む10の短編を収めた作品集である。著者の作風については前回紹介した『愛しのグレンダ』のなかで、現実と妄想の境界線をかぎりなく曖昧にしていく点を大きな特長として挙げているが、本短編においても、まるでだまし絵を見せられているかのような手法で、私たちが知らないうちに囚われているさまざまな区別や境界を打ち消していくものが圧倒的である。ある小説を読んでいた人物が、いつのまにかその小説のなかの登場人物となっている『続いている公園』、演劇を観賞する立場だった客が、いつのまにかその劇の役者として登場することを強いられる『ジョン・ハウエルへの指示』、ある場面を撮った写真を眺めているはずの男が、いつのまにかその写真の世界の人物から眺められる立場になっている『悪魔の涎』――いずれも私たちの生きる現実世界と、もうひとつの虚構として成り立っている世界の基準が、読んでいくうちに逆転してしまい、読者は拠るべき基準を見失って茫然とさせられる、というたぐいの作品だと言える。

 現実世界との対比として登場するもうひとつの世界というのは、短編によって千差万別だ。あるときは『夜、あおむけにされて』のように夢のなかの世界であったり、『正午の島』のように、ある人物の妄想世界であったりする。だが、いずれの短編においても、そのふたつの世界のうち、どちらが真実の世界なのか、という説明はいっさいなされることがない。『占拠された屋敷』において、最終的には着のみ着のままで屋敷を離れることになる兄妹は、自分たちが住んでいた屋敷が何者かに占拠されたという確信のもとで行動を起こしているのだが、その事実を裏づけるのは、あくまで兄が屋敷内で聞いた物音という、きわめてあやふやな情報でしかない。極端な話、どちらが現実であったとしても問題はないし、またたしかめようもない、というのが本書の本質である。『続いている公園』の語り手は、現実世界の人間かもしれないし、物語世界の登場人物かもしれない。だが、どちらでもかまわないという状態は、けっきょくはどちらにも決められない、ということと同義でもある。

 そんなふうにして、自分自身の存在すら含めた境界線をかぎりなく曖昧なものとしていくことで、はたして何が見えてくるのだろうか。たとえば表題作のひとつである『追い求める男』には、天才的サックス奏者であるジョニーという人物が登場する。そして語り手であるジャズ評価家のブルーノは、ジョニーという人間に傾倒しており、なんとかして彼のことを表現したい、とらえたいという欲求をもっている。だが、同時に語り手は、ジョニーが「向こう側」にいて、自分がどれほど追い求めてもとらえられない、むしろ、追えば追うほど遠ざかってしまう存在であることを知っている。けっして既存の価値観、既存の分類で推し量ることのできないジョニーという混沌――その混沌を、秩序づけという枠ではない方法でとらえなおしたい、という意思の力が本書にはある。

 それが具体的には何なのか、はっきりした言葉で書かれてはいない。私たちにわかるのは、小説という形だけなのだ。そしてひとつだけ言えるのは、そこに秩序や論理といったものは何の意味もなさない、ということである。では何があるのかといえば、たとえば『南部高速道路』のなかで見出せるもの、つまり、人間の感覚や情感といった部分だ。『南部高速道路』は、パリに向かう高速道路が何らかの原因で渋滞し、ドライバーたちが何日も高速道路上で立ち往生をくらうという話で、そのうちドライバー同士でグループが生まれ、食糧や水の調達するといった活動や、生活をともにするという連帯感が生じていくという、高速道路や車が本来持つ意味を解体するという意図がある。読者である私たちからすれば、なんとも本末転倒な展開なのだが、物語のなかにいる登場人物たちにとっては、論理など通用しない世界のなかで暑さや寒さを感じ、空腹感やなかなか車が進まないという苛立ちといった感情がすべてであるし、そこから人々の行動が生まれてくる。だからこそ、ふたたび車が流れるようになったとき、技師にとって高速道路を車で走るという行為に疑問が生じることになるのだ。

 現実と夢、現実と虚構、現実と妄想――本書のなかには、たとえば『すべての火は火』のように、なんの関連性もないふたつの世界の物語を無理やりくっつけたような物語もいくつかあるのだが、それらを結びつけるものを、論理によって見出そうとするのは無意味だ。人が人であるという秩序以前にある感情を、物語という枠組み以前の言葉によって構築していこうという、ある種矛盾した試みを、まさに紙一重のバランス感覚で描くことに成功した本書に、はたしてあなたはどのような世界を見出すことになるのだろうか。(2008.11.13)

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