【新潮社】
『琥珀の望遠鏡』

フィリップ・プルマン著/大久保寛訳 



 死とはいったい何なのだろうか。人は死ぬと、どこへ行くのだろうか。死後の世界というものが本当に存在するのかどうか、生きている人間にはたしかめようのないことではあるが、私たちがよく知っている死後の世界といえば、天国と地獄という二大要素から成る世界である。すなわち、生前のおこないによって人々が善人と悪人の二種類に分類され、善人は天国で永遠の安寧を約束され、悪人は地獄で永遠の責め苦を負わされる、というイメージだ。

 世界史におけるキリスト教の信仰と歴史について考えたとき、キリスト教という一神教は、こうした死後の世界のシステムをうまく利用することによって、過去に多くの信者を獲得してきたと言ってもいいだろう。なぜなら、死とは生きている人間であれば誰ひとりとして逃れることのできない定めであり、だからこそ偉大なる神の前においては身分の貴賎を問わず、ひとりの人間として裁きを受けるという死後の世界の教えは、現世において貧しい者、身分の低い多くの民衆たちにとっては大いなる救いとして作用したからだ。彼らにとって、キリスト教とは現世での惨めな境遇から抜け出す唯一の方法であり、自分もまたひとりの人間である、というアイデンティティの拠り所でもあったと言えよう。

 だが、時が過ぎ、世界の多くの国々で人類平等の概念が浸透し、憲法上において人間としての基本的人権の尊重が約束されてから、宗教上における死後の世界の概念は――少なくとも神の前における平等という概念は、以前ほど効果を発揮することがなくなったばかりか、不必要に人々を信仰に縛りつける重荷として作用するようになってしまったのではないだろうか。本書『琥珀の望遠鏡』は、『黄金の羅針盤』『神秘の短剣』につづく、「ライラの冒険シリーズ」の最終巻であるが、本シリーズをすべて読み終えたときに感じたのは、キリスト教の教義への解釈もまた人間によって成されてきたものである以上、けっして永遠普遍のものではなく、その時代にあわせて新たな解釈が与えられてしかるべきものなのかもしれない、というものだった。そう、本書に書かれた壮大な物語は、ライラをイヴに、ウィルをアダムに見立てた、まったく新しい「創世記」の物語でもあるからだ。

 じっさい、本シリーズのなかには、「創世記」――誘惑と堕落、そして原罪をふくむ、人類史における大きな変化を描いた逸話のイメージを打ち崩そうとする方向性が、すでに第一作目からあらわれていたのだが、本書ではついに、アスリエル卿のおおいなる野望――太古の昔から教会勢力を利用して人類を支配しつづけ、さらにその支配力を大きくしようとする神、オーソリティーの勢力との一大決戦がはじまる。それは、『神秘の短剣』の書評でも書いた「宗教」と「科学」、「神の奇跡」と「人類の英知」との戦いの象徴でもあるのだが、その戦いの鍵を握るふたりの子ども、ライラとウィルは、人間の生死というけっして越えられないはずの一線を、「神秘の短剣」と「真理計」の力で切り開き、死後の世界へと生きたまま旅立つことを決意する。いっぽう、ライラたちが「ダスト」と呼んでいた「シャドー粒子」の研究家で、ライラとの出会いによってその物質との対話をはたしたメアリー・マーロン博士は、ある奇妙な世界でミュレファという知的生物とともに暮らしながら、ライラとウィルがやってくるのを待っていた。シャドー粒子に言われた「ヘビの役目」をはたすために……。

 多くの別世界の住人や天使たちをも巻き込んだ「神の奇跡」と「人類の英知」の壮大な戦争は、はたしてどのような結末を迎えるのか。ライラとウィルは死者の世界で何を目撃し、何を成すことになるのか。神の正体は? そしてダストとは人間にとって害をなすものなのか、それとも益になるものなのか? 宗教的善悪の判断を超えた価値観のもとで展開していく、息もつかせぬストーリー性と、けっして先の読めない意外な物語の展開で読者を惹きつける本シリーズであるが、本書ではそれに加えて、大きく広げられた謎や伏線が見事なまでに明かされ、収束されていく様子や、それまでライラたちが出会った印象深い登場人物たちが、さまざまな形で物語のなかに絡んでいく様子など、まさに集大成という言葉がふさわしい作品として完結をむかえていると言ってもいいだろう。

 正直なところ、本書のように壮大なテーマをとりあげながら、いちじるしい破綻をきたすことなく物語を完結させていること自体、ひとつの奇跡のようであるが、本書のもっとも深いところに流れているのは、たんに神やキリスト教の否定とか、人類の英知を手放しで賞賛するといった一方的なものではなく、エデンの園において神に代わって「善悪の判断」をつける能力を身につけた、善でもあり、また悪でもある人間の、人間を愛する力――親子の愛、恋人どおしの愛、兄弟愛、友情といったものの力をもっと信用してもいいのではないか、という一点にこそあるように思える。

 それは、たとえば本シリーズにおいておそらくもっとも印象深い登場人物であるライラの母、コールター夫人が、最後の最後に選んだものが献身評議会への忠誠ではなく、ライラへの愛であった、という一例を挙げれば充分であろうが、それ以外にも、本シリーズの主要な登場人物たちは誰もが、神の与える愛ではなく、それぞれが判断した自分にとっての大切なものへの愛のために戦い、行動を起こしていることに気がついているだろうか。それは、アスリエル卿のスパイとしてライラとウィルのもとに現われることになった、身長20センチメートルほどの小人ガリベスピアンの戦士、シュバリエ・ティアリスとレディ・サルマキアでさえも例外ではなく、彼らもまた自らの信じるもののために、ライラとウィルとともに死者の国にまで赴き、その旅のなかで徐々にふたりの信頼を勝ち得ていくのだが、それはふたりがこの小人の戦士たちを「アスリエル卿のスパイ」という位置付けではなく、あくまでひとりの人間としてとらえたときに生まれた信頼であるのだ。

 そして、「ダスト」の正体――本書のなかでメアリーは、琥珀のレンズでできた望遠鏡をつくりだし、はじめて「ダスト」を肉眼でとらえることに成功するが、それは「シャドー粒子」などという名前がまったくふさわしくない、金色のきらめく光の粒子だった、と言えば、おのずとその正体について察しがつくのではないだろうか。

 長い旅のはてに、ついに再会をはたしてライラとメアリーは、メアリーの修道女から量子物理学者への転身の顛末を聞いたあと、次のような会話を交わしている。

「神を信じるのをやめたとき、善悪を信じるのをやめたの?」
「いいえ。ただ、わたしたちの外に善の力と悪の力があると思うのをやめたのよ。そして、善と悪は、人間のおこないについていえることで、善人と悪人がいるんじゃないと信じるようになったの。
――(中略)――人間は、単純にレッテルをはるには複雑すぎるわ」

 神の愛は完璧だ。そして完璧であるからこそ、善悪の判断も完璧につけることができる。だが、私たちは人間であり、神のように完璧な判断ができるわけではない。おそらく、今この世界でおこっている多くの悲劇の大半が、こうした誤解――自分たちが正義だと信じて疑わない心から生じているのではないだろうか。けっして単純ではない人間の心、ときにどうしようもなく愚かなことをしでかしながら、ときに信じられないほど高尚なことを成し遂げる人間の複雑な心を、けっして単純化、レッテル化することなしに描いてみせた本シリーズは、まさにそのテーマにふさわしい、人間味溢れるファンタジーだと言うことができるだろう。(2002.10.01)

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