【パロル舎】
『小惑星美術館』

寮美千子著 



 宇宙空間から地球を眺めることのできた人間は、自分のなかの何かが大きく変化していくのを明確に自覚するものらしい。ふだん、私たちがあたり前のように生きている場所である地球――多彩な生命を今もなおはぐくみつづける、この青く美しい惑星が、広大な宇宙においてはあまりにもちっぽけで、頼りなさそうに浮かんでいる存在であり、それゆえに地球の存在そのものが大いなる奇跡であることを、私たちは知識のひとつとして理解してはいる。だが、知識として知るということと、じっさいに経験すること――宇宙空間というフィールドで、地球と対等な、孤独な立場に自身を置くということとでは、その認識の度合いにおいて雲泥の差があるに違いない。

 生命を拒絶する真空と放射線に溢れる、絶対零度の死の世界から地球を見ること、それは、私たちひとりひとりが地球という名の奇跡に属しているということ、地球で生まれたあらゆる生命が、等しく「地球」を故郷としているという点でつながっているのだ、ということを、理屈抜きで認識することではないだろうか。

 本書『小惑星美術館』に登場するユーリ・ザキもまた、宇宙から地球を眺めるという、稀有な体験をした少年である。ただ、その世界では地球は「ガイア」と呼ばれ、人類が住んでいる場所は「れんがの月」という名のスペースコロニー ――時間が永遠に円環し、物質と生命がごく小さな連環によってそのバランスを保っているなかで、しかし誰もが衣食住を満たされ、何の心配も不安も抱くことなく生活している、閉じられた世界である。ユーリが生まれ育った地球の町とよく似てはいるけれど、根本的なところがまったく異なっている、もうひとつの世界――そう、ユーリは遠足の日の朝、オートバイにはねられ、広場にある「銀河盤」にぶつかった衝撃で、「れんがの月」の世界にとばされてしまっていたのだ。

「れんがの月」という世界を説明するのに、私は「スペースコロニー」という言葉を使ったが、本書のなかではユーリ以外の人たちは、自分たちが人工の島に住んでいるとは思っていない。なぜなら、彼らにとって「れんがの月」こそが唯一の世界であり、「れんがの月」以外に人が住んでいる世界が存在することなど、まったく想像もできない環境に置かれているからだ。

 もっとも、ユーリも当初は何もわかってはいない。空にまでめくれあがった地面、地下深くに潜ったところに広がっている宇宙空間、そしてもといた世界では死んでしまった母親が、この世界では生きている、という事実は、ユーリにとっては何もかもが反対になった、一種のパラレルワールドとしてとらえられている。「れんがの月」=「スペースコロニー」という結びつきが生まれたのは、12歳の子どもたちが必ず参加しなければならない「遠足」に、無理やり同行させられる過程においてである。その「遠足」の行き先は、約三億五千万キロも離れた場所にある「小惑星美術館」。ネモ船長の操縦する宇宙船で、半年の時間をかけて宇宙を渡っていくときに、ユーリははじめてその事実に気がつくことになる。

 はたして、「小惑星美術館」とは何なのか。なぜ「れんがの月」の人たちは、12歳になるとその美術館を訪れなければならないのか――私たち読者は、ユーリの視点を共有することによって、ユーリと同じ地球を故郷にもつ者として、この閉じた世界の謎に立ち会うことになる。そしてその時点で、私たちはすでに本書の物語世界に引きこまれてしまっているのだ。

「マザー」と呼ばれるコンピュータによってすべてが管理され、植物や家畜は人間の食料となるためだけに存在し、人間もまた120年を12回繰り返すという閉じられた時間のなかで、ひたすら円環していく物質と生命の流れの一部として組み込まれている世界――それは、地球がえんえんと繰り返してきた食物連鎖の流れと、非常によく似ているということはできる。だが、その円環のなかでは完全に充足している「れんがの月」の世界が、そこから外へと向かうエネルギーの存在を許していない、という点で、私たちはどこかいびつな、歪んだものをそこに感じることになる。まるで、ただ回るためだけにエネルギーを消費しつづけるメリー・ゴーラウンドのように。

「わたし、見た。恐い夢。星が浮かぶ真っ暗な宇宙のまんなかで、回転木馬に乗っているの。ぐるぐる回って止まらない。降りたくても、降りられない。降りるところもないの。恐くて恐くて、わたし、夢の中で泣いたの」

 ユーリとともに「小惑星美術館」へと向かうニニはそんなふうに語るが、そのイメージは言うまでもなく、宇宙に浮かぶ「れんがの月」のイメージだ。かつて、村上春樹は『回転木馬のデッドヒート』という作品を書いたが、そもそも回転木馬たちがデッドヒートを繰り広げることなどありえはしない。けっして誰かに抜かれることも、また誰かを追い抜くこともなく、ただひたすらみせかけだけの競争をつづける回転木馬たち――そのイメージは、恐いというよりも、どこか儚く、哀しい。大きな可能性をもっていながら、しかし自分たちがどこへも行くことができないという事実をもし知らないのだとしたら、たとえどんなに充足していても、それはやはり不幸なことではないだろうか。

 真実を知るということは、自分の置かれた立場を、その外側から見ることでもある。そういう意味では、ユーリに与えられた役割は一種の破壊者であるとも言える。永遠に循環する閉じられた世界で心地よい夢をみる人たちの目を醒まさせる者――真実を知るという、ときには大きな痛みをともなう行為を引き起こす者として、「れんがの月」をその外側から眺める視点をもつユーリは適任者だろう。本書はたんなる異世界ファンタジー、遠い未来を描いたSFであることを超えて、物事の真実を正面から見据え、そのうえで人々が一歩前へ進むための勇気を与えてくれる作品だと言うことができる。

 時間を巡るものとして考えるか、あるいは過去から未来へと進むものとして考えるか、それはおそらく主観的な判断によるものだ。あなたのなかの時間は、はたしてどちらだろうか。そしてあなたは、人工的なみせかけだけの夢ではなく、地球につながるもの、この青く美しい惑星のひとかけらとしての夢をみているだろうか。(2002.08.23)

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