【角川書店】
『アナザヘヴン』

飯田譲治 梓河人著 



 真夜中の住宅街でおこった殺人事件、だが、その死体は首を切断されたうえに脳を抜き取られ、さらにシチューの具として鍋のなかで煮られていた……そんな、常軌を逸した猟奇的殺人事件の現場から、本書『アナザヘヴン』の物語ははじまる。
 この、想像するだけで食欲減退まちがいなしの事件の犯人を追うのは、頑固な現実主義の飛鷹健一郎と、オカルト趣味の美男子、早瀬学のでこぼこコンビ刑事。だが、彼らの必死の捜索をまるであざ笑うかのように、マッドクックの被害者は増えつづけ、ふたりの食べられなく料理のレパートリーも増えていく。いったい、犯人の目的は何なのか、そして飛鷹と早瀬は犯人をとらえることができるのか?

 とまあ、本書の簡単な紹介文を書くとすれば、こんな感じになるだろうか。だが、ここで本書が単なる猟奇犯罪をテーマにしたサスペンス小説だと思うなかれ。犯人の行方を追っているうちに、飛鷹と早瀬は次第に、自分たちの相手が普通の人間ではない何か得体の知れない化け物であることを認めざるを得なくなってくる。犯人は、人間の首を素手でへし折ることのできる怪力を持ち、さらに自由に人間の体を乗っとることができ、しかも銃などの武器で殺すこともできないのだ。こうなると、本書はむしろSFやホラーのジャンルに分類されるのかもしれない。

 とりあえず、犯人の正体や事件の結末などは、実物を読んで確かめてもらうとして、本書の重要な点は、あらゆる意味で成長物語の王道をたどっている、ということに尽きるだろう。非現実的な現象をまのあたりにしたり、非日常的な体験を受けることによって、その人がそれまで持っていた価値観が大きくゆらぎ、それを乗り越えることによって、人間としてひとまわり大きく成長する、というアレである。人間離れした犯人の能力をどうしても信じることができず、強引に自分の持つ常識にあてはめようとする飛鷹、頭の中で複雑なことを考えすぎるために、しばしば危険な方向に思考が傾いてしまう早瀬、だが、オモチャを与えられた子供のように殺人を繰り返し、飛鷹の家族や早瀬の恋人を襲ってふたりを挑発する犯人を追い、対峙するにつれ、ふたりの心は確実に変化していく。そして、互いのパートナーに対する信頼感も。

「人間はみんな、心の中に獣を飼っている。それを一応飼い慣らそうとしている。そのくせ気づいていないんだ、このかわいい獣の本当の力に。この世界でなにが破壊力を持っているのか知らない。目が見えてないのといっしょだ。だからぼくが教えてやる。しっかりと見せてやるんだ。おまえたちの中の野獣を」

 人間の皮をかぶったその得体のしれない何かはそう言う。そしてそれは、ある意味事実だ。他の動物を殺してその肉を食べたり、その皮を身にまとったりしているくせに、動物愛護だなんだと騒ぐ人がいる。娯楽のために動物を殺す人もいる。殺人事件は毎日のように起こり、世界のどこかでは今も戦争で人と人が殺し合い、秒単位で餓死者が出ている。無意識の悪意に満ちた世界――アナザヘヴンだと犯人は言う。だが、もちろんこの世に満ちているのは悪意だけではないことも、私たちは知っている。大切なのは、そういった人間の矛盾した心を認めたうえで、どのように考え、行動するか、なのである。多くの被害者を出したむごい事件だが、この事件がなければ、飛鷹も早瀬も狭い常識にしばられつづけていたに違いない。

 善意も悪意もごちゃまぜに混在しているこの世界――アナザヘヴンでは、あらゆるものが変化しつづける、何でもありの世界だ。その影響を受けるのは、何も飛鷹や早瀬ばかりではなく、人間の脳を食べつづける犯人とて例外ではない。なぜなら、人間はアナザヘヴンを故郷とする生き物であり、それゆえに、人間の脳にもまた、善意と悪意が混在しているのだから。
 私たちが生きているこの世界の可能性を、本書にあらためて教えられたような、そんな気がした。(1999.02.11)

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