【講談社】
『A2Z』

山田詠美著 



 誰かを好きになる、ということ、恋をする、ということについて、ある意味もっとも近い場所にいる小説家、それが山田詠美ではないだろうか。彼女はあきらかに知っている、人を好きになるという行為が、肩書きや飾りをすべてとっぱらった純粋な自分自身の姿と向かい合う行為であることを。恋人のことを想い、恋人のために何かしてあげたいと願いながら、じつはまぎれもなく自分自身のためにそうすることを望んでいる恋愛というものが、多分にわがままで身勝手な論理の上に成り立っている行為であることを、おそらく著者は本質的な部分で理解している。

 私たちは歳を経て、大人と呼ばれるようになり、物事に対して分別のある人間としてふるまうことを否応なく要求されるようになる。だが、それだけに振りまわされる人生の、なんとつまらないことか。いい大人でありながら――いや、いい大人であるからこそ、自分自身の感情にすなおに身をまかせることができる場所を持てる、恋愛という行為が重要になってくるのだ。怒りたいときに怒り、笑いたいときに笑う。泣きたいときに泣いて、愛しいと思ったときは素直に相手の肌のぬくもりを求める――本書『A2Z』に書かれているのは、そんな「いい大人」の恋なのである。

 森下夏美は現在三十五歳。子どもこそいないものの、ちゃんとした夫をもつ既婚女性であり、また某出版社の文芸編集者として腕を振るっているキャリアウーマンでもある。そんな夏美がある日、突然新しい恋に落ちる。相手は、出版社の向かい側にある小さな郵便局で働いている年下の男性、成生。郵便局員の制服がぜんぜん似合っていない彼と目が合った瞬間、ふたりはお互いに惹かれ合い、いつしか深い関係を持つようになる……。
 とこんな風に紹介すると、いかにも世間でよくあるどろどろの愛憎劇を描いた不倫小説のような感じがするのだが、本書の雰囲気には、不倫や浮気という言葉につきものの、危険な恋の香りとかいったものとはかけ離れたものがある。それは第一に、本書に登場する人物のほとんどが「好きだ」とか「愛している」といった、いわゆる恋愛感情を持って行動しているわけではない、というところにある。

 そもそも「恋愛」とは、いったいどういう感情のことを指すのだろうか。自分のこと以上に相手のことが気になって仕方がない、という気持ち? いっしょにいると心が安らぐという感じ? あるいはセックスしたいという欲求? だが、人が人を好きになるときに、何をもって人を好きになるか、などという理屈をこねくりまわしている人など、いないのではないだろうか。「ああ、私はこの人に恋愛している」という想いはあとからついてくる特典のようなもので、それ以前に心が、体が、感情がゆれ動く。人が人を好きになるという感情は、非常に複雑なものである。夏美は成生がもたらしてくれる新しい世界に惹かれ、成生とともにその新鮮な感覚を――メディアによって使い古された陳腐な恋愛の形をなぞることを、素直に楽しんでいる。その一方で、自分に恋人ができたことを平気で打ち明けてしまう夫の一浩の態度にいらだちつつ、それでも自分のことをおそらく一番よく理解している一浩と離れたくない、という気持ちも抱いている。さらに、新人でありながら素晴らしい才能の片鱗を見せる小説家、永山翔平の作品に惚れこみ、なんとかして彼と親しくなり、担当編集者になりたい、という情熱も持っている。おそらく、どの関係も世間一般では「恋愛」という言葉でひとくくりにされてしまうものであり、同時に「不倫」や「浮気」というレッテルを貼られてしまう行為にされてしまうだろう。そして夏美は「恋多き三十路女」であると同時に「イイ男に目のないふしだらな女」ということになってしまうのだ。

 だが、それらの表現は、本書においてはけっして正しいものではない。そんな単純な単語で置きかえることができるほど簡単なものでもない。こんなとき、言葉というのはなんと不自由なものなのだろう、と思わざるを得ない。そして同時に、人を好きになるという非常に複雑なことを、小説という、ことばのみの世界で表現する「恋愛小説」というものの形を、あらためて考えさせられる。本書には、恋愛をテーマにしながら、ありきたりな恋愛小説になることを拒否するような雰囲気がある。
 本書の中で、夏美はこの間読んだ恋愛小説が、セックスの最中なのに、女が男に敬語を使っていることに対する不満を述べている。そして、それに対抗するかのように、夏美の言葉遣いはずいぶんとぞんざいで、いわゆる女言葉などはいっさい使わない。おそらく、著者にしてみれば、女が「〜だわ」とか「〜よ」とかいう語尾をつける話し方をすることのほうが不自然に思えるのであろうし、それが現実世界では正しいのだ。自分の理想の女性を勝手につくりあげたあげく、今時の女性がけっして使わないような言葉遣いをさせるその辺の「恋愛小説」とは、本書はたしかに一線を画していると言うことができる。

 食事、お酒、会話、セックス。私たちが二人でしていることは、それだけだ。でも、それ以上の何がいったい必要だというのだろう。

 男と女の関係において、これがすべてだとするなら、「恋愛」とはなんと単純なことだろう、と思う。だが、そのことをなんとかして言葉にして伝えたい、と思ったとき、「恋愛」はけっしてとらえきることのできない、複雑なものへと変化してしまう。人間が知恵を持ち、言葉を獲得した代償が、「恋愛」というものを複雑にしたというのであれば、それはなんとも皮肉なことだと言わざるを得ない。

 本書のタイトル『A2Z』とは、「(from)A to Z」のこと。欧米では、このアルファベッド二十六文字があればすべてが表現できてしまう。そのことを、本書ではそれぞれの章をAからZに区切ることで、説明しようとした。だが、少なくとも人が人を好きになる、ということに関しては、おそらくどれだけ言葉を尽くして表現しようとしても、説明することは不可能である。単純にして複雑な恋愛を描いた本書の奥の深さ、味わう自信のある方はどうぞ。(2000.05.24)

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