【朝日新聞社】
『八犬伝』

山田風太郎著 



 物語というのはあくまで虚構の産物であって、人間が現実を生きていくうえで、生物学的には何の意味もない代物である。物語を聞いても空腹が満たされるわけではなく、また物語が何かを生産したり、寒さを防いでくれたり、病気を治してくれるわけでもない。空腹を満たすには食べ物が、何かをつくるには材料と技術が、病気になれば薬と医者が必要であって、けっして物語がその代わりになってくれるわけではないのだ。

 自分のまわりをとりまく現実をまぎれもない事実として、ありのままに受け止めて生きていくのは間違いではない。だが、人は誰もが現実だけを直視して生きていけるほど強くはないし、また現実そのものも、人の夢を何もかも実現させてくれるほど甘いものではない。じっさい、人々の努力は報われないことが多いし、ともすると理不尽なこと、不条理なことがまかりとおってしまうのが現実というヤツなのだが、そうした現実の厳しさや無常といったものが耐え難いものとなったとき、人は現実を出し抜く手段のひとつとして物語を求め、物語が生み出す虚構の世界にしばし身をひたすことになる。

 物語とは何なのか、人はなぜ古来から物語を求め、ときには自ら創造者となってまで物語をつむぎたいという欲求に駆られるのか――たとえばトールキンの『指輪物語』は、「中つ国」をはじめとする架空世界の歴史や神話、言語体系といったものまで事細かに設定したうえで、おそろしく壮大なファンタジーを構築していったが、こうした人間の、ある意味壮絶とも言える作業の結実をまのあたりにするたびに、まるでひとつの別世界をまるまる創造してしまおうとするかのような、この物語創造の原動力となったものは何だったのかと思わずにはいられない。

 さて、本書のタイトル『八犬伝』と聞いて、あるいはピンと来た方も多いかと思うが、この作品は江戸時代の劇作家、滝沢馬琴の代表作『南総里見八犬伝』のオマージュという色合いが濃い。内容の構成は「虚の世界」と「実の世界」のふたりの物語が平行して流れており、「虚の世界」では滝沢馬琴が創作した『南総里見八犬伝』の世界が、「実の世界」では現実の滝沢馬琴が生きた江戸中期の世界が展開されている。そして「虚の世界」は、じつは「実の世界」にいる馬琴が、画家である葛飾北斎に、まさにこれから書こうとしている『南総里見八犬伝』のあらすじを語って聞かせている、という形がとられており、そう考えると本書は、『南総里見八犬伝』のオマージュではなく、むしろ滝沢馬琴という劇作家へのオマージュだととらえたほうがよいのかもしれない。

 里見一族にかけられた呪いのため、妖犬八房の子を身篭ってしまった伏姫は、しかしその命とひきかえに八つの珠を飛ばし、「八犬士」の誕生を予言する。里見家の窮地を救い、盛り立ててくれる八人の運命の子――『南総里見八犬伝』とは、この個性溢れる八犬士たちがさまざまな逆境と苦難を乗り越えて集結し、最後には里見家に仇なす巨悪を討ち滅ぼすという雄大怪異な物語であるが、約28年という歳月をかけて書かれた全180回、98巻106冊というこの大長編小説、現在では岩波文庫から全10冊で刊行されているが、私は残念ながら、この原作を読んだことはない。もちろん、原作を知っていたほうがより良いのかもしれないが、じつは原作の大筋については、その盛り上がりどころも含めて「虚の世界」のなかで語られており、原作を読んだことのない人でも充分楽しめるようになっている。むしろ、本書のなかで重要なのは、原作の内容がなぜこれほど長大なものとなってしまったのか、という点であり、「女子供の娯楽のための架空話」と割り切れず、ともすると講釈や説教を取り込んだり、物語の詳細に到るすべての伏線を消化し、すべての登場人物について善が勝ち、悪が滅びるという結末をつけずにはいられない、おそろしく几帳面で完全主義者としての滝沢馬琴という人物造形である。

 本書の「実の世界」に書かれている滝沢馬琴は、相当に偏屈で我が強く、かなりの嫌われ者である。ちょっとした礼儀作法や金銭勘定に細かく、しょっちゅうさまざまな人間と対立、衝突を繰り返し、知識と才能はあるものの、南総に行ったこともないまま南総を舞台に、平然と物語を生み出してしまう。およそ、世の中をうまく渡っていくこととは無縁な性格であるにもかかわらず、かつての自分の家系が武家だったことにこだわり、自分の息子を大名おかかえの医者にすることで武家社会とのつながりを取り戻そうと、子どもの教育に何かと手や口を差し挟むのをやめようとしない、カチコチの現実主義者の馬琴は、今の世の中にもよくいるタイプの人間だが、少なくとも『南総里見八犬伝』のような小説の主人公としてはもっともふさわしくない俗物である。むしろ、天衣無縫でひたすら絵を描くことを愛し、ぞんざいな振る舞いが多いにもかかわらず、どこか人を惹きつける魅力をもつ葛飾北斎のほうが、よほど「絵になる」人物なのだ。

 美しい姫が犬の子どもをはらんだり、狐や狸の化身が出てきたりと、およそ奇想天外で史実もなにもあったものではない『南総里見八犬伝』であるが、これとよく似たタイプの物語の書き手として、私たちは自然と著者である山田風太郎のことを思い浮かべる。『魔界転生』などは、『南総里見八犬伝』と負けず劣らず奇想天外な作品であるが、よくよく考えてみると、この両者の作品は、いろいろな意味で共通する部分をもっていると言える。

 ここからはたんなる想像でしかないのだが、もしかしたら著者は、滝沢馬琴という人物をとおして、自分自身の姿を見ていたのではないだろうか。その生涯においてじつに多くの作品を送り出してきた著者であるが、本書という物語を使い、滝沢馬琴の俗物ぶりに自分なりの答えを見出すことによって、逆に自身のこれまでの創作活動についても、なんらかの答えを出したかったのではないか、と思わずにはいられない。

「だから、正義が悪とたたかい、正義が悪に勝つ過程をえがいてこそ小説の存在意義があるのだ――(中略)――だから……架空事であっても、私は正義の物語をかくのだ。だから私は、伝奇小説によって、まちがった実の世界の集積――歴史を正すのだ!」

 物語とは、けっきょくのところ虚構でしかない。だが、ときに人は膨大な労力と執念を傾けて、虚構の世界を描き出す。あくまで現実を出し抜くための物語――しかし、滝沢馬琴が書き残した『南総里見八犬伝』は、今もなお多くの人々に大きな影響をあたえつづける超大作として、まさに現実をも越えた存在となった。物語はけっして空腹を満たしたり、病気を治したりする力はないが、それに触れた人々の心を変えていく力を秘めている。本書を読み終えると、あらためてそんなことを信じてみたくなるのだ。(2004.04.17)

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