【東京創元社】
『七つの海を照らす星』

七河迦南著 
第18回鮎川哲也賞受賞作 

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 以前、朝日新聞の朝刊で、クリスマスに子どもに本を贈るという趣旨で、翻訳家であり、また児童文学研究家でもある松岡享子の書いた記事が載ったことがあったのだが、そのなかでもとくに印象に残っているのは、今の子どもたちが非常に「刹那的」だと感じていると触れている点だった。

 刹那的だというのは、今という時間しか見ていないということ。そして刹那的であるということについて、「例えばいじめに遭ったとき。今しか視野に入っていないと、とてもつらい」と語る。そこから離れて、より長い時間で自分自身をとらえるのに、「さまざまな本の主人公の生きかたに触れる」ことが重要だと記事はつづいていくのだが、過去があって、そこから今という時間がつながっているという認識を確立するためには、他ならぬ自分自身の過去ときちんと向き合う必要がある。その過去が愛情に満ちたものであれば、それはこのうえなくたやすい作業である。なぜなら、過去の自分は肯定されている、間違ってはいないという意識は、周囲の愛情によって満たされるものであるからだ。だが、この世に生まれてきたすべての子どもたちが、愛情に満たされた過去をかかえているわけではない。

 一見美しくても嘘や欺瞞で固められた物語はいずれ破綻する。でも事実であればそれでいい、ということじゃない。無限にある『事実』の中から自分にとって意味あるものを選び、つなぎ合わせ、解釈して自分を主人公にした納得のいく物語を作っていく。――(中略)――真実とはそういうものじゃないかって。

(『暗闇の天使』より)

 本書『七つの海を照らす星』は、表題作をふくむ七つの短編を収めた作品集だが、物語の舞台が一貫して児童養護施設である「七海学園」であり、そこに勤める保育士の北沢春菜が一人称の語り手として物語が展開していくという意味で、それぞれ短編どうしが時間的、空間的なつながりをもつ連作短編集という側面をもってもいる。親の離婚や死別、あるいは虐待といったさまざまな理由で家族と暮らせない理由をかかえた子どもたちが生活している「七海学園」は、それゆえにいろいろと問題のある子どもたちも多く、けっして楽な仕事でないのは事実だが、そんななかでけっして苦しいことだけではない、それなりに充実するようなこともあり、また二十四歳という若さもあって、仕事が恋人という日々を送っている。

 それぞれの短編のなかで、語り手は一貫してはいるが、その物語の焦点となる少女――七海学園で暮らしている、あるいはかつて暮らしていた子どもたちは、毎回異なっている。それは、あるときは学園のルールや職員の言うことを聞かず、反抗的でトラブルばかり起こす女の子だったり、あるときは戸籍すらあたえられないまま学園に保護されて、まるで自分がここにいることが申し訳ないと思っているかのように控えめに生活している女の子だったり、あるいは親の愛情を受けられずに自分に自信をもてず、臆病で泣いてばかりいるような女の子だったりするのだが、いずれもその過去において深く心を傷つけられるような出来事をかかえた子どもたちであるという点では、ひとつの共通点をもっている。そして、物語のなかでは、そんな女の子たちに付随するかのように、「学園七不思議」と呼ばれる怪奇現象が生徒たちのあいだで言い伝えられていくことになる。

 いわく、死んだはずのかつての学園の先輩が甦り、女の子にとり憑いている、いわく、いつのまにか笹の葉にくくりつけられていた血文字の短冊、いわく、女の子六人で入ると七人目の女の子の囁きが聞こえてくるというトンネル――本書は、施設のなかでちょっとした騒ぎとなるこれらの七不思議を「日常の謎」ととらえ、それらの謎に対して探偵役となる人物が真相を明らかにする、という意味においてはこのうえなくミステリーであり、またミステリーとしての手順を物語のなかでも忠実に追っている。だが、これこそが本書最大の特長のひとつでもあるのだが、探偵役を担う児童相談所の児童福祉司である「海王さん」は、たんに謎の真相をつきとめることだけに満足するような人物として書かれてはいない。そしてそれは、過去のつらい出来事をたんなる「事実」としてさらけだすという行為が、その当事者である子どもたちにどのような影響をおよぼすことになるか、という点について、このうえなく気をつけているという彼独自のやさしさ、子どもたちのもつ力を心から信頼しているという人柄ゆえのものでもある。

 言ってみれば、「学園七不思議」の謎というのは、それぞれの短編で焦点となる子どもたちの心の傷と少なからずつながっており、その真相をあきらかにすることは、その心の傷に不用意に触れ、あるいはさらにその傷口を広げてしまう危険性をはらんだものでもあるのだ。語り手の春菜は、学園内で七不思議の噂が広がると、その謎の真相をはっきりとさせることで生徒たちの動揺も収まるのではないか、と考えるのだが、「海王さん」は、探偵としてすぐれた洞察力で事の真相を見抜きながらも、その真相は「事実」のひとつでしかないという立場をとる。そして、場合によっては真相を何もかもはっきりとさせるのではなく、当事者である子どもたちが、他ならぬ自分自身の過去を見据え、自分自身の物語を再構築させていくことのほうを重んじている。

 当初、児童相談所の人間は現場のことを知ろうともしない役立たず、という認識をもっていた春菜は、「海王さん」の存在を知ることで、彼らもまた子どもたちのことを気にかけ、子どもたちが過去を乗り越えて自立していくことに心を砕いているということを知るようになる。本書を読んでいくとわかってくるのだが、本書の謎を追ううちに、そうした子どもたちのために働いている施設の人たちが、少なからず子どもたちのために裏で行動し、ときには自身が憎まれ役を買ってでも子どもたちの主張を大切にしてやりたい、という強い願いに触れることになる。そこには、たとえ今は真相はわからなくとも、いずれ当事者が自分から真相を語ってくれるときが来る、いや、来てほしいという願いともつながっている。なぜなら、それはその子どもたちにとって、過去を客観的にとらえることができたということであり、他ならぬ自分自身を肯定するだけの自信ができた、ということを意味するからである。

 そして、だからこそ本書においてその謎がすべてあきらかにされるとき、そこにはミステリーにおける事件の解決以上の感慨が生まれることになる。

 少しだけ不思議を残しておいた方が、全てを明らかにしてしまうより落ち着ける、そんな時もあるのかもしれません

(『今は亡き星の光を』より)

 自分の過去にあったことを筋道立てて語ることができず、そのことで他ならぬ自分自身を確立できないまま、傷ついた心をもてあまして問題行動をとってしまう子どもたち――そんな彼らのことを隔離し、忘れ去ってしまうのではなく、正面からぶつかって、ともに泣いたり笑ったりしていく、そして何より無条件に「本当にいい子」であると心から信じることができる大人たちがいる。それだけでも、本書は大きな救いであると断言することができる。そして本書の物語が、多くの人たちにとっての「真実」となってくれることを願ってやまない。(2009.01.05)

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