【文藝春秋】
『64』

横山秀夫著 

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 人を突き動かす原動力となるもの、人をある行動へと駆り立てる要素となるものには、どのようなものがありうるのだろうか、とふと考えることがある。たとえば私は今、会社という組織の一員として勤めている者のひとりであるが、会社の至上目的が「利益を上げる」ことにあるのは間違いないこととして、その会社に属している個々の人々が、純粋にその目的のみに従って自身の言動を決定づけているわけではない。もしその原理をあてはめてしまうなら、会社の製品やサービスを直接売り上げる営業部門の業務こそが至上のものとなり、そうでない部署の業務には何の価値もない、ということになってしまう。

 当然のことだが、管理部門には管理部門としての仕事というものがあるし、もしその業務が疎かになれば会社が立ちゆかなくなる危険すらある。私は今勤めている会社ではシステム部門に属しているが、およそ今の時代においてシステム関係は会社の業務そのものに深くかかわっていることが多く、もしシステムが止まるような事態になったとしたら、会社全体の業務に深刻なダメージを与えることになる。したがって、システムをふくめた管理部門の人たちは、営業部門の人たちとは異なる価値判断のもとに業務を遂行している。システム部門であれば、とにかくシステムが滞りなく運用されつづけること、営業部門のルーチンワークを軽減し、会社の意思決定のための情報を提供するシステムを構築すること、そういった目的のために仕事をこなすことになる。

 これはべつに会社員だけにかぎったことではない。およそ人間社会で生きていくために、金を稼ぐというのは重要な案件のひとつであるが、何のために金を稼ぎ、そのためにどんな仕事をするのかという点に的を絞ったときに、それは非常にラディカルな命題となって私たちにはね返ってくることになる。何のために金を稼ぐのか――株式の売買などで巨万の富を得ている人たちなどは、まさに金で金を買うような行為にいそしんでいるわけだが、よくよく考えればこれほど不毛な行為も他にない。それでもなお、ある人が株式売買に血道をあげるとするなら、そこには彼らなりの強固な哲学なり矜持なりがあるからこそだと言わざるを得ない。たんに生きるため、金を稼ぐために働くというのも真理の一面ではあるが、それだけではいずれ立ちいかなくなってしまう。人が何かの行為を成しつづけるためには、それなりの理屈が必要なのだ。

 今回紹介する小説のタイトル『64(ロクヨン)』は、本書の舞台となるD県で十四年前に起こった「翔子ちゃん誘拐殺人事件」を指す符丁である。身代金二千万円をまんまと強奪されたあげく、誘拐された当時七歳の雨宮翔子は無残な死体で発見、犯人は不詳でいまだ解決を見ていないという、D県警察史上最悪の事件であるが、時効を間近にひかえ、すでに地元では過去のものとして風化しつつあったこの事件がふたたび息を吹き返したのは、事件の新たな手がかりが出てきたとかいったことではなく、警察庁長官の視察という意想外なイベントに端を発している。

 本書の主人公である三上義信はD県警の警視という身分にはあるものの、その部署は刑務部の「広報室」、つまりマスコミに対する警察への窓口係だ。警察情報を一元管理し、ときにその情報を戦略的にマスコミに流す、組織外部に開かれた「窓」としての広報――だが、その実態は警察と記者のかぎりない不満と鬱憤を一身に受ける、スケープゴートとしての役割を引き受けることでしかなかった。じっさいに本書を読んでいくと、マスコミ側は事件にかんする情報公開を徹底的に求めるいっぽう、警察側は不要な情報はできるかぎり漏らさないよう、広報室への情報を出し渋り、結果として双方から恨まれるというなんとも損な役回りを演じさせられる場面に何度も出くわすことになる。

 しかも三上はもともと刑事畑の人間であり、気質としてはきわめて刑事側に寄り添っている人物である。それでもその職務に忠実たらんと奮闘するものの、彼の上司にあたる刑務部長は本庁からの腰掛キャリア、とにかく記者たちに舐められないよう警察主導で彼らをコントロールすることしか考えておらず、記者と警察との良好な関係を築くどころか、お互いの不信感をことさら助長することになってしまう。

 警察一家。それは心強く、ありがたく、自分がその強大な組織の一員であった幸運を思わない日はない。だが――(中略)――想像だにしなかった。組織に縋ったことが、よもや己の弱みになろうとは。

 個人と組織、それも強力な権限をもつ警察組織と個人としての意思との軋轢や対立、葛藤といったテーマは著者の得意分野ではあるが、本書における三上の「広報室」という部署は、こうした対立をことのほか強調するものである。警察もマスコミも、自身の正義を貫くことにかけては人一倍強いこだわりをもつ面々であるだけに、一度双方の不信感が高まれば、文字どおり一触即発の空気をはらむことになる。じっさいに、三上は物語のなかで何度となくその危機に立ち向かわざるを得ない立場に追い込まれるのだが、さらに本書の場合、そうした対立にくわえ、三上自身の警察――とくに本庁への不信感という構図も組み込まれており、まさに疑惑が疑惑を生み、真実が何なのかが読者にもわかりにくくなっているという特長がある。そしてそれを象徴するものとして、警察庁長官の視察がある。

 はたして視察の目的は何なのか――当初こそ、本庁によるPR活動と踏んでいた三上であるが、部長からは刑事部の人間に頼らず広報室だけで根回しするように言われ、またロクヨン被害者の父親である雨宮芳男には、長官の訪問をすげなく断られてしまう。そうこうするうちに、刑事部との関係がひどく悪化していくのだが、どうやら自分の知らないところで、刑務部の人間がロクヨンについて嗅ぎまわっている形跡を見かけるようになる。

 何か自分のあずかり知らないところで、何か重大なことが進行している、あるいは何か重要な秘密が隠されている。だが、広報室というコウモリ的な部署ゆえに、とにかく情報が圧倒的に不足している。足りない情報を三上がどうやって集め、隠された真相への道を探り当てていくか――言ってみれば、それこそがこの物語のメインであるのだが、そういう意味では本書はきわめて良質なミステリーとしても成立していることになる。それも、本書の主題でもあるロクヨン関係の真相に直接的に迫るのではなく、広報官ゆえのひどく回り道をしたうえでのたどりつく真相である。だがそれゆえにこそ、物語は何度も急転直下の展開を迎え、そのたびに読者を驚かせ、また感動させる構造ができあがっている。

 県警と本庁、警察とマスコミ、さらには同じ県警でも刑事部と刑務部、上司と部下――それぞれがそれぞれの思惑と打算をかかえ、組織内で身の擦り切れるような権謀術数を繰り広げていく本書のなかで、刑務部の広報でありながら、資質的には刑事であるという三上の存在は、ある組織の一員として完全に染まりきれていない、ほぼ唯一の人間と言っていい。そして、だからこそ彼は、そうした警察組織内のどうしようもないごたごたのなかにあって、他ならぬ自分という個が何をもって行動理念とするべきかに長く悩み苦しむことになる。本書を読み終えてあらためて思わされるのは、組織のなかにあってその清も濁もすべて飲み込んで、なお個人としての意思を貫くことができる人間だけが発揮する、底知れない強さだ。それは、警察という強固な組織であるがゆえに、よりいっそう光り輝くことになる。

 ひとりの人間にできることは、たかが知れている。だからこそ人は多く寄り集まり、力を合わせることでより大きなことを成し遂げることを覚えた。だが、多くの人が集まることでできあがった組織という大枠は、いつしかそこにいる人の質とは関係なく、その存続のために動いていくようになる。そんななかで、自分の職務の本質とは何かという本書の命題は、そのラディカルさゆえに読み手の心を強く打つ。『クライマーズ・ハイ』でマスコミの世界を、『第三の時効』で警察の世界を書いた著者の、まさに集大成と言うべき大作がここに結実している。(2013.05.16)

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