【早川書房】
『五人姉妹』

菅浩江著 



 あたり前のことではあるが、人間の心はけっして単純なものではない。そして単純ではないがゆえに、私たちはいつもその複雑な心の揺れに悩まされることになる。何かに対して単純に「好き」とか「憎い」とかいう言葉で、感情をひとくくりにすることができるなら、どんなに生きるのが楽だろうと思わずにはいられない。だが、そんなふうに自身の感情をある単語に置き換えてみても、それはけっして自身の内に渦巻くものすべてを補完してはくれないし、それゆえに自身の想いもまた、100パーセント相手に伝えられるわけでもない。そして、そんな感情や想いは時とともに移り変わっていく。けっして不変でありつづけることのできない人の心――その小ささ、弱さ、醜さ、そして、それらをすべてひっくるめたうえでのいとおしさというものは、菅浩江という作家の場合、SFという、ある意味で人の心とは対極に位置するものを舞台装置とすることで、よりいっそう際立たせることのできるものであることを、本書『五人姉妹』を読んであらためて確信した。

 我儘なだけならいい。嘘つきなだけならまだ許せる。しかし両方を兼ね備える人間というものは、なんと複雑で悲しいものなのでしょうか。(『KAIGOの夜』より)

 表題作を含む、九つの短編を収めた作品集である本書の世界は、いずれも科学技術の発達した未来――たとえば医療技術の向上によって多くの病が克服され、高度に発達したネットワークで世界中の人々がひとつの仮想世界を共有し、あるいはさまざまな分野で人間の手助けをするロボットが登場し、綿密に管理された農場で最高品質の食物が育てられるような、そんな世界が描かれている。それは、今という時間を生き、実生活という面でさまざまな不安をかかえている私たちにとっては、ある種のユートピアのような世界でもある。だが、にもかかわらず本書の世界に生きる登場人物たちは、けっしてその現状に満足してはいないし、それぞれが特有の問題をかかえ、不安を感じたり悩んだりしている。

 たとえば、『夜を駆けるドギー』に登場するコープスは、自分の周囲にあるあらゆるものに無関心をよそおう「死体」としての自分がもっともふさわしいと思いながらも、心のどこかでは逆に、何かに熱くなったり夢中になったりできる人たちをうらやみ、自分もそんな何かがほしいという焦りをかかえているし、『お代は見てのお帰り』のバートや『賤の小田巻』の入江雅史は、かつて芸人や役者であった父親のことを蔑みながらも、何かひとつのことにすべてをかけることができるその姿勢を、どこかで敬愛している自身に気づいている。電脳空間のホストとして仮想デートの相手をしている『ホールド・ミー・タイト』の松田向陽美は、現実世界ではある会社のOLとして、年下の部下であり後輩社員でもある男性に少女のような恋をしており、そのギャップに身が引き裂かれそうな気持ちをかかえている。

 もちろん、どれだけ科学技術が発達しようと、人間のかかえる問題はけっしてなくならないし、その恩恵をこうむるには、当然のごとく金銭が必要となってくる。本書が描く未来社会でも、人々は日々の生活のために働いていることに変わりはないのだろうが、こと本書においてそうした人々の生活臭を極力表現しないようにしているのは、人間が人間であるがゆえに抱えざるをえない問題――生物として生きのびるための問題ではなく、あくまで自我という意識をもつ人間として、自分が何のために生きているのか、という問題を、より鮮明に映し出すための方策のひとつだ。表題作である『五人姉妹』は、その典型的な例だろう。会社の利益のため、幼いときに成長型の人工臓器を埋め込まれた園川葉那子が、彼女の万が一のときのために非合法に用意された四体のクローンと面会をはたすという物語のなかで、彼女もクローンたちも金銭的には何不自由ない生活を送っている。すでに成長期を過ぎ、クローンの必要性もなくなった以上、葉那子がクローンたちとわざわざ会うという行為は、じつは何の意味もないことである。

 だが、それでもなお彼女がそうせざるを得なかったのは、それは父親への感情という点で引き裂かれた自分自身を、もう一度再構成する必要性を感じたからだ。言ってみれば、同じ遺伝子から生み出されたもうひとりの自分との対面をはたした、ということでもある。もしかしたら、自分のなかにもあるかもしれない、それぞれのクローンへの愛すべき部分と嫌うべき部分――まるで聖女のように、クローンとしての自分の役目に誇りを見いだすのも、「部品倉庫」としての存在を否定したあげく、精神崩壊にいたるのも、等しく自分自身であることを、彼女は何より自分の父親の記憶と結びつけることによって再確認しようとした。自分が何者なのか、自分はこれから、この世界で何をなすべきなのか、という命題に対するひりつくような想いは、本書に収められたそれぞれの短編に共通するテーマでもある。もし著者の作品にSFらしからぬ幻想的な印象を受けるとすれば、それはひとえに、登場人物たちがかかえる人としての心の問題に、真摯であるという点に尽きる。

 複数の受精卵のなかから、優生学にもとづいて誕生することを許された試験管ベビーの林絵衣子が、ほかならぬ自分が「選ばれた」ことの意味を探し求める『秋祭り』も、「介護されるロボット」の話題から、人類の思わぬ未来とその運命に対する限りないいつくしみを感じさせる『KAIGOの夜』も、科学の発達した未来であるがゆえに生まれた悩みであり、そういう意味ではたしかにSFであることに間違いないが、そのテーマはひたすら人の心に向けられている。高度に発達した未来を舞台とするがゆえに浮きぼりにされていく、醜くも愛すべき人間の姿をありのままに描いた本書の世界を、ぜひとも堪能してもらいたい。(2005.04.08)

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