【角川書店】
『5』

佐藤正午著 



 男の子というものは――あるいは女の子もそうなのかもしれないが――小さい頃は何かをコレクションすることに夢中になったりするものだ。私もその例に漏れず、日本酒の王冠やカード、石ころ、キャラクター消しゴム、切手などをコレクションと称して集めていたり、あるいはカブトムシやクワガタといった昆虫を採集していたりした時期があるのだが、そんな過去のコレクションの一部がおもいがけず見つかったりすると、なんだか妙に懐かしい感じにとらわれたり、ちょっと照れくさい思いをいだいたりする。そこにあるのは、過去の私が傾けていた情熱の痕跡であり、そうした物品をつうじて「ああ、そういえばこんなものを集めていたんだ」とそのときの記憶がまざまざと甦ってくることもある。だが、不思議なことにそうした過去の記憶を懐かしく思い出すことはあっても、その未完成なまま終わってしまったコレクションを再開しようという気持ちになることはない。

 以前はあんなにも熱中していたことであるにもかかわらず、今になってみると、なぜ自分があれほどのめり込んでいたのかが皆目見当がつかない、という気持ちの変化は誰もが一度ならず経験することではあるが、今となってはすっかり冷めてしまったあのときの情熱は、はたしてどこに行ってしまったのだろうか、とふと考えることがある。人の心は時とともに移り変わっていくものであるし、およそこの世のなかに変化しないものなど何ひとつない。あるいは、そうした思いを重ねていくことが大人になるということなのかもしれないが、かつてはたしかに自分の内にあったはずのものが、今はどこにも見つからない、というのは、過去の輝けるコレクションが今やゴミと大差ない、という事実をまのあたりにするのと同じくらい理不尽で、そして虚しい。そうなったとき、人はどうするのだろうか。あらたに熱中できるものを探すしかないのだろうか。たとえ、それが大恋愛のはてに結婚した配偶者を捨てるという結果になったとしても。

「必ず冷めるもののことをスープと呼び愛と呼ぶ」
「真理だ」
「その真理がくつがえるんです」

 本書『5』の語り手である津田伸一は四十代の中年にさしかかった小説家で、過去に二度の結婚と離婚を経験した独り者だ。世の中を斜に構えたようなところのある皮肉屋で、そうした性格が災いして、著作物についても過去に問題となり、あやうく出版界から干されかかったこともある彼は、今は複数の女性と関係をもつような生活をつづけながらも、やはり文筆によって生計をたてている。それは社会的にはけっして褒められた生き方ではないのだが、本書冒頭で語られるのは彼自身のことではなく、中志郎という男がバリ島で体験することになる、ある奇跡のことである。

 中志郎と妻の真智子との関係は冷え切っており、七年近くも性交渉がなかった。とくに中志郎のほうが、妻にどうしても愛情をもてずにいるという状態が長くつづいていたのだが、バリ島旅行で出会ったある女性との体験を機に、人が変わったように妻を愛するようになった。彼が「奇跡」と呼ぶその不思議な体験を津田伸一が知っているのは、以前から真智子と不倫関係にあったからに他ならず、彼女が津田伸一との関係を終わらせたいと申し出てきたことが直接のきっかけであり、彼にとってすべてのはじまりでもあった。

 本書を読み進めていくとわかってくることであるが、この津田伸一という男は、こと男女の恋愛感情についてはある意味達観した考えの持ち主で、彼にとって愛情と性欲はほとんど同じものとみなされている。そして、そのことをとくに隠そうともしない。それこそが小説家としての彼のアイデンティティを支えているところもあるのだが、他者に対して取り繕うということをしない彼の態度が、ことのほか外部に敵をつくりやすいのもたしかだ。物語は、そんな彼の一年半におよぶ、彼の周辺で起こったちょっとした出来事――とくに女性とのつき合いから生じた事件について触れつつ、後に「石橋」という名前で登場する、中志郎の体験した奇跡の中心人物や、彼女のもつ特殊な力について、少しずつ近づいていくことになる。

 はたして、中志郎と石橋とのあいだで起こった「奇跡」とは、どういうものなのか。そもそも石橋がもっている力とは何なのか。日常ではありえない不思議な出来事を物語の中心に据えながら、物語の中心人物や語り手となる人物がそうした不思議から距離を置いた場所にいて、その不思議の核心になかなか触れることができず、周囲をぐるぐるめぐる、あるいはそうした不思議とは無関係に自身の日常をつづけていく、というのは、著者の作品に共通するひとつのパターンだ。本書においても、「奇跡」を直接体験したのは中志郎であって、津田伸一ではない。むろん、物語の予定調和として、最終的に彼が石橋のもつ力に触れることになるだろうことはある程度予測することはできるが、こと中志郎にポイントを絞ったとき、津田伸一という人物は妻の浮気相手であり、彼が「奇跡」で取り戻すことができた妻への愛情をぶち壊しにしかねない存在と言える。つまり、本書のメインにあるはずの不思議を、否定する存在である。

 中志郎の身に起きた奇跡は(もし彼の言う通りにおきたのだとすれば)形のあるものの記憶の復活ということではない。――(中略)――僕の理解では、彼が取り戻せると主張しているのは、昔の自分の、心の記憶だ。

 必ず冷めるものとして、愛をスープと同じだと主張する津田伸一にとって、その奇跡は容易に信じられるようなものではない。物語上の立場から考えればごく当然のことであるが、物語そのものは、そんな彼の意思などおかまいなしに、彼の不倫相手が夫とよりを戻したというたしかな事実を起点として動き出している。そしてその結果は、社会的な立場からいえば津田伸一にとっては危機的状況に追い込むものとして作用する。必ず冷めるはずのものが、ふたたび熱くなるという「奇跡」――重要なのは、その奇跡の力がどのようなものであるか、ということではなく、その奇跡がかならずしも人を幸せにするわけではないという事実である。石橋にとってその力が、余計なもの、邪魔なものでしかなかったように。

 私たちは過去の記憶において、良かったこと、喜ばしいことはすぐに忘れてしまうのに、嫌なこと、苦しいことといった負の感情についてはなかなか忘れられないものだったりする。とくに男にとっては、過去の失敗というのはいつまで経っても後を引いてしまうものであるが、それはじつのところ、初恋の女の子の記憶などと同じようなものなのかもしれない。良い思い出も苦い思い出も、ともに過去の出来事であり、そこに留まっていては前に進むことができなくなってまう。そして苦い思い出、思い出したくない失敗というのは、それはそれでどうにもならないものではあるが、それがあってはじめて次へ進むことができるということもある。

 冷めないスープはない――問題は、冷めた後にそのスープをどうするのか、ということを、その人自身が選択し、次へ進んでいくことである。人がこの世で生きていくということ、そのまぎれもない姿が、本書にはたしかにある。(2008.01.16)

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