【講談社】
『四つの終止符』

西村京太郎著 



 たとえば、肌の白い人間と、肌の黒い人間がいたとする。そして肌の色の違いがあり、またそれまで過ごしてきた環境や文化の違いもあるだろうが、彼らがふたりとも、まぎれもない人間であることは間違いのない事実であり、どちらが優れているとか、どちらが劣っているとかいった物差しは、そもそも何の意味もないことである。人間を外見や考え方によって差別するのはよくない――それは、おそらく誰もが学校で習う重要な道徳だろう。だが、私たちはじつにしばしば、自分の考えこそが正常である、という論理になんの内省もなく陥ってしまう生き物でもあるのだ。たとえば、自動販売機のボタンの高さは、私たちにしてみればなんてことのない高さであっても、身体障害者や『君は小人プロレスを見たか』でとりあげられている小人症の人たちにとっては、あるいは不便な位置にあるのかもしれない。もっと身近な例でいえば、駅の自動改札システムはずいぶんと便利なものであるが、それでもあのシステムが基本的に右利きが前提となっているということに、左利きの人たちは気づいているはずである。

 もちろん、だからといって身体障害者用の自販機をたくさん設置すべきであるとか、左利き用の自動改札をつくるべきだとかいうことを言いたいわけではない。大事なのは、この世にはじつに多種多様な人間がいて、それぞれが自分なりの考えや価値観をもっているのがあたりまえだということである。たしかに、生まれつき視覚障害をもっている人や聴覚障害をかかえている人が、この世界をどのように認識しているのかを私たちが想像するのは難しいし、おそらく完全に理解することなど不可能だろう。そうでなくても、たとえば『地球生まれの異星人』でとりあげられている自閉症スペクトラムのような、見た目には何の身体障害のない、しかし脳の障害を原因とする症状をかかえている人たちは、それゆえに人々の誤解を招きやすい立場にある。彼らの立場を理解できないからといって、彼らを無理やり健常者と同じ社会の枠組みにあてはめていけばいい、という論理は立派な差別である。にもかかわらず、この社会ではじつにしばしばこうした、少数者を多数者の論理に従わせるような事態がおこっている。白人が黒人を差別するのは間違いだと教えているにもかかわらず、身近なところであたりまえのように起こっている差別意識を、私たちははたしてどこまで認識しているだろうか。

 本書『四つの終止符』の舞台となるのは、小さな町工場が雑然とひしめいている下町や、その労働者を相手に商売をしているうらぶれた歓楽街といった、社会的にけっして裕福とはいえない人々が、寄り添うようにして暮らしている場所であるが、そんな下町のある小さな玩具工場で働いている佐々木晋一は、耳が不自由であるという障害をかかえていた。彼の母親は二年前から寝たきりで、けっして環境がいいとはいえない長屋でふたりきりで生活をしていたが、その母親が砒素中毒で殺されたことがあきらかになったとき、真っ先に疑われたのは、息子の晋一だった。砒素入りの栄養剤を購入したという事実、そのほかに青酸カリが発見されたこと、貧困と母親の不治の病、そして行方をくらませるという晋一の行動――あらゆる状況が彼にとって不利な材料となっていくなか、警察に逮捕された晋一は、自身の無実を主張しつづける。

 はたして、犯人は本当に晋一なのか。もし他に犯人がいるとすれば、彼の母親を毒殺し、晋一に罪をなすりつけたのは誰なのか。本書のミステリーとしての面白さがあるとすれば、それは当然のことながら、真犯人が誰で、そこにどんな動機があったのか、という点に尽きると思うが、そうした謎解きの醍醐味――決定的に不利な状況から、どうやって事件の真相へとたどりつくのか、といった部分の読みごたえもさることながら、この物語のなかで重要なのは、晋一の無実を信じて独自に調査をつづける石母田幸子や松浦時枝が、そのたびごとに思い知ることになる、聾者への社会的差別と疎外の現実であり、そんな社会に対する晋一の深い孤独と絶望なのだ。

 身体障害者とか、聾児ということばから、暗い、陰惨なものを感じるとすれば、それは、一般の人々が、かってに作り上げたイメージだ。人々は、そのイメージを、聾児たちに押しつける。押しつけられたかれらは、しだいに、イメージどおりの人間になってしまうのではあるまいか。

 ここで書いた「社会的差別と疎外」とは、けっしてあからさまなものではない。たとえば、晋一を雇っていた工場の社長は、慈善事業のつもりで彼を雇っていた、と答えている。彼自身、きっと聾者への親切心があったことはたしかなのだろうが、聾者であることをどこまで配慮していたか、という点ではいかにもお粗末なものでしかなかった。刑事たちの晋一に対するとりあつかいも、また幸子が雇った弁護士も、聾者に対する一般の先入観から思考を飛躍させることができずにいた。そして悲しむべきことに、かつて弟が聾者であり、それゆえに晋一に特別な好意を寄せていた幸子でさえ、聾者であることがこの社会において、どういったことを意味するのかを、やはり決定的に理解できずにいた。結果、物語の途中で晋一は留置所で自殺し、幸子もその後を追うことになる。それは読者である私たちからすれば、ひどくショッキングな展開である。なぜなら、彼らの死は言ってみれば、聾者への認識不足によって起きてしまったことであり、彼らは社会の無理解によって殺されたも同然であることを、私たちに突きつけてくるからである。

 明石書店から刊行されている『ぼくたちの言葉を奪わないで!』という本には、生まれつき耳が聞こえない子どもたちに対して、「かわいそう」であるとか「不自由だろう」と判断されること自体が間違いである、としている。耳が聞こえない、というのは、あくまで健常者から見た視点であり、病理的なとらえかたでしかない。そして、病気だから治すべきものなのだ、という判断が、これまでの聾者教育を大きく歪めてきた事実を指摘している。そもそも聾者とは、手話という異なる言語を話す言語的少数者であり、耳が聞こえない以外は何でもできるのだ、という「人権宣言」は、言葉にしてしまえばいかにもあたりまえのことでしかないのだが、そんな「あたりまえ」のことが、ことごとく無視されつづけてきた現実が、本書になかにはたしかに存在するのだ。

 本書には誰かが熱い正義感をもっているとか、そういった露骨な主張は存在しない。物語全体が、あくまでひとつのミステリーの形式を崩すことなく進んでいくが、だからこそ登場人物たちの物静かな態度や言葉が心に残る。私たちが知らないうちに陥っている、無意識の差別意識に、あらためて目を向けさせる作品である。(2004.10.13)

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