【宝島社】
『四日間の奇蹟』

浅倉卓弥著 
第1回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作 



 かつてはたしかにあったはずの大切なものが、ちょっとしたことで容易に失われてしまうこと、そして一度失ったものは、二度とふたたび戻ってはこないことを、限りない後悔と絶望の感情とともに思い知るようになったのは、いったいいつの頃からだろうか。財産、仕事、地位、名誉、人間関係、そして自分の体や健康といったものも含めて、私たちはその人生のなかで、何かを得るためというよりも、むしろ何かを失うために生きているのではないかという、人間としての自身の存在の無力感、むなしさみたいなものを誰もが一度は感じたことがあるかと思うが、そういったことを突きつめて考えていくと、最後には必ず、自分という人間がなぜこの世で生きているのか、という、けっして誰にも答えを見いだすことのできない問いにぶつかることになる。

 人はいつか必ず死を迎える。それは何人たりともけっして避けることのできない運命だ。ならば、なぜ人は生まれてくるのか。いずれは死んで消えてしまうのに、それでもなお人間としてこの世に生まれてこなければならなかったのは、なぜなのか。聖人でもなんでもない、ただの無力な人間である私に言えることなど何もないのだが、たったひとつだけ言えることがあるとすれば、それは自分という人間――とかく失敗し、道を誤り、そして何かを失ってしまったり、何かを壊してしまったりする自分自身を、それでもなおどこまで大切に思うことができるかによって、その人の歩んだ人生の価値が決まってくるのではないか、ということである。 

 自身を大切に思う、と言っても、それはべつに、偉大な発明をするとか、何かの分野で大きな貢献を残すとかいった、大袈裟なことを成さなければならないということではなく、また、他人を傷つけても自分のことを第一に考える、ということでもない。たとえば、自分が今、ここで生きているということ。あたり前のように思うかもしれないが、私たちの体がきわめて絶妙なバランスをたもつことで生命を維持しており、ほんのちょっとそのバランスが崩れるだけで、人の体は容易に死んでしまうという医学的事実を考えてみれば、私が今、こうして本を読み、書評を書いていられる、ということ自体がひとつの奇蹟だといってもけっして過言ではない。そしてだからこそ、私たちは人間として、ささやかでもかまわないから、誇れる生きかたをしていくべきだと、本書『四日間の奇蹟』を読み終えてそんなふうに思った。

 おそらく人間だけが、たとえ親子という関係で結ばれていない、言わば生物学的にまったく無関係な他の個体のためにでも、己の快不快の原則を裏切ることができるのではないか。

 小さな娯楽室でのピアノコンサート、一片の狂いもない完璧な演奏をする少女、演奏を終えたその少女が無邪気にしがみつくひとりの青年、その手袋に包まれた左手の、不自然に潰れている薬指――物語の冒頭の数ページで、とくに印象づけたい部分を前面に押し出していくことで、読者の心をいきなりつかんでしまう本書の文章構成はたいしたものだと、とりあえず思わされてしまった。少女の名前は楠木千織、青年のほうは如月敬輔。千織は先天的に知的障害をかかえているが、一度聞いた曲はすべて完璧に記憶し、ピアノで奏でることができるという、特異な才能をもっており、それは他ならぬ敬輔によって見出されたものだった。ピアニストとしてその将来を有望視されていながら、とある事件によって左手の薬指を失い、永遠にその道を閉ざされてしまった敬輔にとって、千織はその原因の一端となった憎むべき存在であるとともに、自分が守るべきか弱きもの、その才能をいつくしむべき存在でもあるという、きわめて複雑な関係であることが、本書を読んでいくにつれて徐々にあきらかになっていく。

 物語はそうした前振りの後、彼らが慰問に訪れることになる長期加療者療養センターで体験することになる、まさにそのタイトルどおりの「四日間の奇蹟」を描いていくことになるのだが、その詳細についてはこの場での言及は避けるとして、本書においてひとつ顕著なのは、敬輔にしろ千織にしろ、センターで思わぬ再会をはたすことになった、今はそこのスタッフとして働いている岩倉真理子や、事故で植物人間状態になった妻がセンターの患者として入居している倉野医師をはじめ、誰もがかつて持っていたはずの何かを失ってしまった者たちであり、後悔、怒り、怖れといった、自分を否定しようとする負の感情に押しつぶされそうになりながらも、それでもなお生きていこうと懸命になっている、ということである。

 つまりここは、壊れてしまった家族たちが集まっているんです。そしてお互いの欠損を補い合って、みんなで一回り大きな家族をこしらえたんだ、という言い方はしてかまわないと思います。

 自分の勤めるセンターについて、真理子はそんなふうに答えているが、一般社会からはちょっと隔絶した場所にあるそのセンターは、とかく自分のことばかりを優先しがちな競争社会、物質社会とは、その成り立ちも、機能も一線を画した特殊な場所という見方ができる。自分が他の誰かの力を借りなければ生きていけない存在であること――さまざまな障害をもち、それゆえに日常生活もひとりではままならない患者たちは、そのことに絶望しながらも、しかし同時に他の誰かの力になれることを、センターでの生活を通して知っている。ひとりひとりの力はいかにも無力ではあるが、そうした力がいくつも集まって、全体として奇蹟のようなコミュニティーめいたものが築かれている、という状態は、見方を変えれば人間の脳細胞のしくみと類似したものがあると言える。

 本書のなかには、千織の障害と絡むような形で、人間の脳に関する話も出てくるが、ひとつひとつは単純な機能しかもたない細胞が多く寄り集まって、全体として脳というきわめて複雑なしくみを維持していく、そして、仮に脳の一部が機能不全をおこしたとしても、その周囲にある脳細胞がその機能を補完していくことさえある、という人間の脳のしくみは、今もなお現在の科学では説明のつかない現象をおこす神秘の器官であるという。瀬名秀明の『BRAIN VALLEY』では、神の存在や臨死体験といった神秘を、あくまで科学で解き明かしていこうとする作品であったが、本書の場合、そうした人間の脳がもつ、いまだ解明不能な力を人間が持つ可能性のひとつとして、そのまま提示するだけである。そして、それはそのまま、本書のなかでおこった「四日間の奇蹟」へとつながっていく。本書の大きな特長は、人間の脳とセンターという場を、ひとつの比較対象として取り上げることで、そこでおこった奇蹟をスムーズに読者の意識に浸透させていくことに成功した、という点であろう。

 はたして、敬輔たちが垣間見た奇蹟とは、どういうものだったのか。そしてその奇蹟は、失われてしまったものにとらわれている人々の心をどのような形でおぎない、そして解放していったのか。人として生きることの意味を問いかける本書の結末に、ぜひとも期待してもらいたい。(2004.12.20)

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