【新潮社】
『四十日と四十夜のメルヘン』

青木淳悟著 
第35回新潮新人賞/第27回野間文芸新人賞受賞作 



 誰が書いていたかは忘れてしまったが、ある方のエッセイのなかで、警察の書く調書のことを話題にしていたものがあったのを覚えている。調書といってもさまざまな事件の調書があるわけだが、そのとき取り上げられていたのはある特定の事件のものではなく、たとえばニュースや新聞記事などで「警察の取り調べに対し、容疑者はわけのわからない供述を繰り返しており〜」と報道されるようなたぐいの調書のことである。この「わけのわからない供述」という表現が、本当に警察がその調書に記したものをそのまま引用しているものであるとすれば、その調書を書いた警察は、容疑者が発言した内容をそっくりそのまま書き写したわけではなく、おそらくその発言内容の詳細について理解することを放棄したうえで「わけのわからない供述」という表現をもちいたことになる。警察をして「わけのわからない」と書かせてしまう容疑者の供述は、じっさいにはどういうものだったのか、どれほどのわけのわからなさを含んでいるものなのか、非常に気になるところだ、というふうにそのエッセイはしめられていたと思う。

 現実問題として、警察の調書に「わけのわからない供述」なる表現がもちいられるかどうかは別として、私たち人間がコミュニケーションの手段として言葉という道具を使っているかぎり、その伝達過程においてなんらかの齟齬が生じてしまうのはある意味避けられないものがある。それはけっきょくのところ、言葉が不完全な道具であるということにつながっていくのだが、その言葉によって世界のあらゆるものに名前をつけ、世界を厳密に定義づけてきた人間たちは、しかし言葉の不完全さゆえに生じてしまう齟齬を、そのまま自身の内なる世界の齟齬として組み込んでしまう運命を背負っているともいえる。人間は言葉によって大勢の人たちと世界を共有することができるようになった生き物であるが、同時に人間は、その言葉の不完全さゆえに、根本的なところでお互いを理解することができず、それぞれが自身の構築した言葉の世界のなかに閉じ込められた生き物でもあるという、なんとも矛盾した齟齬をかかえて生きていかなければならなくなっている。

 本書『四十日と四十夜のメルヘン』は、表題作のほかに『クレーターのほとりで』という作品の二作を収めた作品集であるが、いずれの作品にも共通して言えるのは、ある種の齟齬によって思いがけず生じる物語の可能性、ということになるだろうか。そこには物語としてのきっちりした構造は無きに等しく、それゆえに私たちがたしかなものとして定義している時空間の概念――つまり、そこがどこの時代であり、どこの国のどの町を舞台とした物語なのかすらあやふやなものとして、ポンと読者の前に投げ出されているような印象さえ受けるものとなっているのだ。

 とはいうものの、じつは『四十日と四十夜のメルヘン』については、場所はかなりはっきりとしており、西武新宿線沿いにある下井草駅や井萩駅周辺であることはもちろんのこと、一人称の語り手である「わたし」が住んでいる都営住宅の名前や、彼女(あるいは彼)がよく買い物にでかけるスーパーの名前、そこにどんなものが売られていて、自分が今どんな仕事をしているのかなど、その生活の細部にいたるまで、かなり具体的な情報を物語の中で提示している。にもかかわらず、物語全体の枠組みがはっきり見えてくるどころか、詳細を積み重ねていけばいくほど全体が際限なくぼやけていくような感じがしてしまうのは、ひとえに物語上における時間軸がある種の破綻をきたしているからに他ならない。そもそも、語り手である「わたし」自身の名前や性別といった、本来であれば必然的にわかってくるはずの要素さえ、いつまで経ってもはっきりしてこないのである。

 時間軸の破綻を招いている大きな要素は、一人称の「わたし」が書いている日記にある。日記とはいうものの、ちゃんとした日記帳につけているわけではなく、あくまで彼女(あるいは彼)が通っている文芸創作教室の課題として書く予定でいる小説への、言うなればつなぎとしてとりあえず書こうとしているものであり、そのせいか「わたし」は部屋じゅうに溢れているチラシの裏をとりあえず日記帳代わりにもちいている、という感じなのである。もちろん、それでも日記ではあるので、日付だけはちゃんと記されているわけだが、どうも本書を読んでいくと、かならずしもその日の出来事をその日のうちに書いているわけではなく、あとになってその日のことを思い出しながら書いているらしいことがわかってくる。それゆえに同じ日付の、しかもそれぞれが微妙に食い違っている内容の日記が何度も繰り返し登場することになる。

 いうなれば、時間軸そのものがチラシの裏の白い部分に書き散らされたかのような、ある意味でとっちらかった物語となっているのだ。そしてその背後にあるものとして、「わたし」が通う文芸創作教室の講師である小説家の処女作『裸足の僧侶たち』の存在がある。その小説家によれば、『裸足の僧侶たち』には原作があり、過去に修道士のひとりがラテン語で書いたとされるバラバラの紙片を翻訳、年次順に並べたうえで、七年におよぶ手記をわずか七日間に圧縮して書いたものがその処女作だというのだが、その真相についてはけっきょくあきらかにはされていない。ゆえに、そのエピソード自体もまた創作である可能性も否定できないわけであり、そのうちに「わたし」は、フランス語教室のテキストに触発されたある物語を、またもやチラシの裏に書きはじめていく。まるで、『裸足の僧侶たち』の創作過程を再現しようとするかのように。

 いっぽうの『クレーターのほとりで』については、破綻しているのは時間軸ではなく、むしろ場所である。どうも大昔に隕石の落下によってできたとされる沼――太古の昔に人類の祖先がそこにたどりつき、生活したらしいその沼がどこにあるのか、具体的な情報は何ひとつあきらかにされないまま、物語はその先祖の奇妙な生活の様子を描いた太古の昔から一気に未来へとくだっていく。そして、その沼の跡を発掘していた研究者たちは、そこから出てきた多数の人骨について、さまざまな憶測をめぐらせていく。

 いずれの作品においても、何かの基準がかぎりなくあいまいであるがゆえに生じてしまう齟齬が、逆に思いがけない形の物語を生み出していく、というひとつの流れをもっている。『四十日と四十夜のメルヘン』では、一人称の「わたし」が書き出した物語が、しだいに「わたし」の現実の生活の影響を取り込んだり、逆に物語の中の出来事が現実世界に噴出したりして、現実と虚構の境界線があやふやになっていくし、『クレーターのほとりで』では、研究者たちのさまざまな憶測が、前半の物語との齟齬をよりいっそう際立たせていくことになる。だが、そうした齟齬は、そもそも作品の時空間がかぎりなくあいまいなものである以上、そうなってしかるべきもの、予定調和としての齟齬であり、本書中の思いがけなく生じた物語というのは、じつはきわめて意図的なものだとも言えるのである。そのアンバランスさ――そして、それゆえに読者が抱かずにはいられない、拠って立つものがない不安感、それこそが、本書の最大の特長だと言ってもいい。

 そもそも、チラシの裏側の白い部分を使って書くようなことは、せいぜいがメモか覚書、それも、ほんの一時期だけ記憶していればいい程度のものでしかないはずである。だが、『四十日と四十夜のメルヘン』の語り手は、当人がそのあつかいに困っている大量のチラシをかかえて途方にくれている、という状況がある。本書を読み終えて、私はもしかしたら、と思うのだ。本書が意図していたのは、チラシの裏に書かれる程度の言葉や、捨てるに捨てられないチラシといった、現実的にはほとんど何の価値もないもののなかから、思いがけず言葉が熟成され、崇高な物語へと変換される可能性であり、そこから生じてくる齟齬を前面に押し出すことだったのではないか、と。(2006.02.16)

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