【集英社】
『ワセダ三畳青春記』

高野秀行著 



 物事をじっくり考える、というのは重要なことだ。たとえば、何らかのプロジェクトにかかわることになったとき、その目的を達成するために何をどのような順序でやっていくべきなのか、あるいはその過程において、どんな問題が発生しそうかをあらかじめ想定したうえで、その対策をどうとるべきなのか、といった事柄を検討するのは、未来を予測してそれに備える想像力を有した人間だからこそできることである。だが、こうした問題はどれだけ時間をかけて考えたとしても、これで完璧だという到達点は存在しない。じっさいにプロジェクトが動きはじめれば、かならず想定外の出来事というのは起こってしまうものである。それ以前に人生においては、何か問題が生じたときに、じっくりと考えることができるだけの時間的猶予がほとんどない、という事態がことのほか多かったりもする。

 私自身はどちらかというと、物事を事前にじっくりと考えるほうなのだが、あまりに熟考しすぎて、いつまで経ってもスタートを切ることができないままに終わってしまうという、なんとも本末転倒な体験を何度もしてきている。これはたとえるなら、目の前に生ものの食材があるとして、それをどのように料理しようかと考えているうちに、食材が腐ってしまうようなものである。もちろん、最高の料理をつくることができればそれに越したことはないのだが、生ものを前にしたときに、時間をかけて考えるよりは、直感的に捌いてしまうことのほうが、より良い結果を得られる場合があることを忘れるべきではない。それは、あるいは正しいことではないのかもしれないが、正しいことがかならずしもより良い結果につながるわけでないのは世の習いでもある。

 今回紹介する本書『ワセダ三畳青春記』を読み終えたときに、私がふと思ったのは、著者である高野秀行の、まるで生ものの食材を前にしているようなその行動力――ともするといい加減で、後先のことを考えていないようにも見える、その行動力の元となっているのは何なのだろうか、という素朴な疑問だったりする。なにせ彼は、大学のサークルの後輩の「アパートの三畳間の部屋がひとつ空いたから、誰か住む人いないか」という呼びかけに、いきなり応じてしまうような人である。しかも情報は家賃が一万二千円ということと、敷金と礼金の有無程度。これだけの情報しかないにもかかわらず、とりあえず引っ越しを決めてしまうというのは、なかなか常人にできる選択ではない。

 もっともそれも、彼が早稲田大学の探検部に所属していること、それも、年齢的にはとっくの昔に卒業していてもいいはずなのに、というか、おそらく卒業してのちも探検部のメンバーとして活動しているということを考えれば、不思議でもなんでもないことかもしれない。国内外を問わず、およそ探検的要素のあるところであれば、それこそ辺境の地にすら赴いてしまうという活動を、およそライフワークのごとく続けている人が、サラリーマンといったまっとうな道を歩んでいけるはずもない。そして本書で彼が十一年にわたって住むことになる「野々村荘」は、そんな著者の強烈な個性を象徴するような場所として書かれている。

 当初、単に実家に帰りたくないときに避難所として使おうと思って借りた部屋だが、半月もしないうちに「自宅」となっていた。
 野々村荘は想像したよりずっと居心地がよかった。

 私は学生時代に、四畳半に申し訳程度に流しがあるだけの部屋に四年間住んでいたことがあるが、著者はそれよりもさらに一畳半少ない三畳の部屋だ。バスなどあろうはずもなく、トイレも流しも共用、ただの一軒屋をアパートにしているため、玄関すら共用という格安の「野々村荘」であるが、それだけであれば早稲田近辺においてはさほど物珍しい物件というわけではない。重要なのは、「野々村荘」がある意味で「無法地帯」であること、およそ最低限のルール――最終的に月々の家賃が支払われること――さえ守られるのであれば、住人の素性はおろか、何ヶ月も行方知れずになっていてもおかまいなしというおおらかさをともなった空間であるという点である。アパートの大家にしてからが、賃貸物件の家主であるということに無頓着なところがあり、貸した部屋に知らない人が住んでいようが、家賃が滞納していようが気にしないばかりか、野々村荘にいくつ部屋があるのかすら忘れていたりする始末。商売というよりは、なかば趣味でやっている感じであり、当然のように不動産情報として登録されていない。

 言ってみれば、口コミだけで知られる物件、ということになるのだが、そのせいもあって、野々村荘の住人も著者同様、ふつうの道を踏み外したような個性的な人々が集まってくる。司法試験に何年も失敗している、およそ彼自身にしかあてはまらない独自のルールに妙に神経質なケンゾウさん、とにかくその生き方がドケチそのものである「守銭奴」をはじめ、なんとも困った個性の持ち主たちが繰り広げる騒動は、およそ馬鹿馬鹿しくて、自分の抱える悩みすら馬鹿らしくなるほどの威力がある。そしてもちろん、著者自身の奇行も忘れてはならない。もともとアマゾン河を筏で下ったり、サハラ砂漠をバイクで縦断するようなことをしでかす探検部のメンバーだ。変な麻薬に手を出して意識不明になったり、突然三味線に目覚めたり、その腕を利用して流しの占い師をやってみたりと、およそふだんの生活においても、脈絡のない奇行は枚挙にいとまがないほどである。そしてそんな著者の爆笑ライフを読んでいくにつれ、なぜ著者が「野々村荘」という場にたどりつき、そこにこのうえなくフィットするようになったのか、妙に納得させられてしまうのだ。

 私たちの生きる社会は、おそらく日本だけでなく、多くの先進国と呼ばれる国々がそうだろうと類推するのだが、私たちの考えている以上に経済というものが至上のルールとして適用されているようなところがある。それはすなわち、いかに金を稼ぐことができるかが人間の価値を決定する世界に生きている、ということであるが、著者をはじめとする本書に登場する人々は、その基準から逸脱した存在である。それゆえに、彼らはお金の貸し借りとか管理というものにも無頓着だったりするのだが、それは「お金」というものに至上の価値を置く世の「常識人」にしてみれば、たまったものではないだろうことは想像に難くない。だが逆に言うなら、「お金」という価値にこだわらないということは、著者たちにとって「貧富」にともなうさまざまな見栄や偏見といったものにさえ頓着しないことを意味する。

 三畳の部屋に住む、それも九十年代という時代にそんな部屋に住むというというのは、そうとうの貧乏人というステータスを押しつけられるということだ。だが、そのことに何の価値もないことを知っている著者にしてみれば、「だからどうした」という程度のことでしかない。もちろん、お金が重要なことは知っている。だが彼の生活において、基準となるのはけっしてお金ではないのだ。そしてそのことを理屈としてわかっている人はいても、自身のライフスタイルにまで反映させられるような人は、滅多にいない。著者は、そんな数少ない人物のひとりである。だからこそ本書はただ面白いというだけでなく、どこか読み手に憧れのようなものをいだかせる何かがある。

 いっけんすると、後先考えていないように見える著者の行動力がどこから生まれてくるのかと、この書評の冒頭で問題提起したが、これはけっきょくのところ逆なのだろうと思う。何かが原動力となって彼の行動力へとつながっているのではなく、後先考えない行動力――それこそ世界のあちこちへと飛び回るような行動力が経験となり、彼の直感をこのうえなく磨く結果となっているのだと。そして本書にしても、結果として著者がこれまでに出した作品の宣伝にもなっているのだから、やはり恐るべき生き方である。(2014.01.20)

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