【集英社】
『第三の時効』

横山秀夫著 

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 以前にも何度か書評という形をとおして、私が主張してきたことのひとつとして、とにかく犯罪にはいっさいかかわりをもちたくない、というものがある。そもそも犯罪というものが、それにかかわった人間の、あたりまえのものとして認められていたはずの日常を否応なしに崩壊させてしまう性質をもっている以上、加害者としてはもちろんのこと、被害者としても、そして第三者としても犯罪とは遠く隔たったところで安心して日常生活をおくっていたい、と思うのは人間であれば誰しもが少なからずもっている心情であろう。だが、そうした一般論とはべつに、犯罪を嫌悪する理由の裏に何かあるとすれば、それは警察への嫌悪であり、警察とはどのような形であれ関係したくない、という心情である。

 およそ、警察ほど私たちの日常からかけ離れたところに位置する組織はほかに例を見ないのだが、それは警察が動くときにはかならずそこに犯罪という非日常がつきまとうからに他ならない。彼らにとっては犯罪こそが飯のタネであり、犯罪がなければ彼らはお払い箱も同然である。だが、人間が人間であり、社会のなかでお互いに何らかのかかわりあいをもって生きていく以上、犯罪はけっしてなくなることはなく、ゆえに警察は今日も犯罪という非日常にどっぷりとつかり、犯罪者を捕まえるために、ときに犯罪とは何の関係もない人々をもまきこんで突っ走っていくことになる。その姿は、ときに国家権力をふりかざして人々の生活に土足で上がりこんでくる可能性を秘めたやっかいな存在であり、彼らの追う犯罪とは無関係の人にとっては、ともするとそれ自体が災厄にもなりかねない、迷惑千万なものでしかないのだが、そんなふうに強権を振りかざし、ときに市民の嫌悪を一身に背負うという因果を引きずりながらも、それでもなお犯罪者を追いつづけるというのは、並大抵の精神で勤まるものではない、と思い至ったとき、私はふと思うのだ。彼らを突き動かす原動力は、いったい何なのか。それはたんに「犯罪を憎む心」という、いかにも抽象的な正義感程度のもので支えきれるものなのだろうか、と。

 本書『第三の時効』は、表題作をふくむ六つの短編を収めた作品集であり、いずれもF県警強行犯捜査第一課という、殺人事件の最前線にいるいわば花形刑事たちの奮闘を描いている、という意味では連作短編集ともいうべき作品であるが、本書が警察小説として他の作品と一線を画している大きな特長のひとつに、とかく上命下服を旨とする古臭いムラ社会を構成し、個人であることよりも組織の一員であることを絶対とする警察組織のなかにあって、一課を構成する三つの班を指揮する班長の圧倒的な個性がある。一斑の朽木、二班の楠見、三班の村瀬――それぞれが同じ課の他の班に強い対抗意識を燃やし、しかしそれぞれがそれぞれの理由によって犯罪を誰よりも憎み、犯人逮捕に異様なまでの執着を見せる彼らの意思が、警察という組織のなかで行動することよりも常に上位にあること、それが犯人逮捕の妨げになると判断すれば、たとえ上司の命令であっても無視して独自の行動を起こすことさえも厭わない、その強靭な精神力が、何より物語をドラマティックなものに仕上げている。

 三人は個性も捜査手法もまるで異なるが、ただ一点、犯罪者と同化してしまったかのような「体臭」が似ている。田畑を含む一般的な刑事の構えを「執念」「職人」「プロ根性」の類で表現するなら、彼らに共通するのは、「情念」「呪詛」「怨嗟」といった禍々しい単語群だろうか。

(『囚人のジレンマ』より)

 こうしたかなりおっかない、組織内でも異質な雰囲気をまとっている刑事像の代表格ともいえるのが、一斑の朽木泰正で、『沈黙のアリバイ』の冒頭、F県警本部長の訓示放送を、デスクに両足をのせ、耳掃除をしながら聞いている、というかまったく無視している不敵な態度がそのすべてを物語っていると言ってもいい。物語はその後、彼の班が担当した現金集配車襲撃殺人事件の容疑者として逮捕に踏み切り、ようやく自白にこぎつけることに成功したはずの湯本直也が、法廷の席で自分は無罪であり、そのアリバイもあると証言を一変させるという展開となり、物的証拠を見つけ出せずにいる一斑の立場はかなり危ういものとなるのだが、捜査の内容から導き出した朽木の推論は、湯本がクロであることを確信していた。つまり、湯本は最初から公判で無罪を勝ちとるために、あえて「警察の脅しに屈して自白を強要された」哀れな被害者を装うことを計算していたのだと。

 はたして、湯本は本当に事件の共犯者なのか。彼が口にした「アリバイ」とはどんなものなのか? 狡猾でずる賢い犯罪者の、その醜い本性を隠している偽りの顔の皮を引き剥がす――どんな場面においてもけっして笑うことのない強面の「青鬼」朽木は、湯本の公判での豹変ぶりに対しても、「もしかしたら自分が間違っていたのでは」などと弱気になることはけっしてない。それは、それだけ彼の率いる班の捜査能力、および彼自身の犯罪者をかぎつける能力に絶対の自信をもっているからに他ならないのだが、そこに彼自身の過去――自分にもまた醜く歪んだ「皮下の顔」があることをどうしようもなく知ってしまった、しかもそのことをどうしても許せそうもない朽木の悲痛な過去の出来事が重ねられることで、その自信に強力な信憑性が生まれてくることになる。

 それは読者の立場からすれば、朽木というキャラクターへの感情移入をうながすエピソードであり、本来であれば彼の犯人特定の推理力とは無関係なのだが、朽木自身もまた、犯罪者と同様の醜い人間の一面をもちながら、その醜さを逆に犯罪捜査の武器として犯罪者の逮捕にすべてをかけているという、いわば負の原動力は、たしかに犯罪者をかぎつける刑事としての嗅覚に信憑性をもたせるのに充分なものがあると言える。

 本書は基本的に、朽木のような尋常ならざる事情をかかえた刑事たちが多く、そうした設定が物語に厚みをもたせる役割をはたしている。たとえば『ペルソナの微笑』は、朽木の部下である矢代勲が中心の物語であるが、彼は子どものころに誘拐殺人事件の「道具」として利用されるという過去を背負っており、まさにそうした過去が事件解決のカギとなっていく。そこには、いわゆるミステリーでいうところの理論的な謎解きの面白さではなく、むしろ犯人をいかに追いつめていくかの心理戦の面白さがあるのだが、時効間際の事件の犯人を逮捕するために、二班の班長である楠見が謀略にも近い方法で犯人を追いつめていく表題作の『第三の時効』や、逃亡中の犯人への密通者を特定するために、責任追及の会議をえんえんとつづけるように仕組んだ、三班の班長村瀬の活躍する『密室の抜け穴』などは、警察現場のリアルな雰囲気や法律にかんするこまかい知識とも相まって、下手なミステリーよりもはるかに読者の意表をつく展開の連続であり、まさに見事というほかにない。

 小説家には短編に向いている人と長編に向いている人がいるが、以前に読んだ『クライマーズ・ハイ』などと比べてみても、著者は間違いなく短編のほうがその実力を発揮できる小説家である。何より、本書における引き締まった心情描写――心の中をそのまま言葉に書くのではなく、何気ないそぶりやちょっとしたセリフのなかに巧みにその心情を織り込ませる手法は秀逸で、それがまた本書のテーマにピタリとはまっているのである。事件検挙率ほぼ100パーセントの「常勝軍団」である捜査一課――課長の田畑昭信でさえそのあつかいに苦慮する彼らのその仕事ぶりは、たしかに優秀ではあるが、犯罪者だけでなく、ときには同僚や他の班でさえ叩き潰すべき敵としてとらえている、非常にギスギスしたもののように見える。『囚人のジレンマ』や『モノクロームの反転』は、そんな戦うためのマシンのような彼らが、不器用なまでにまわりくどいやり方で、他人への思いやりを示すエピソードを書いた短編であるが、けっして表情豊かではなく、また露骨な態度をとることもない彼らの、ふとにじみ出る感情を表現するのに、これほど的確な心情描写ができる作家はそうそういるものではない。

 私はとにかく警察が嫌いであるが、犯罪を憎むあまり、人間として大切なものを極限まで削ぎ落としていくことに何のためらいもない、そのストイックなまでの精神をもつ朽木たちのような刑事の存在は、悲痛である以上に感動的ですらある。そんな私が愛してやまない刑事たちの活躍ぶりを、ぜひともたしかめてもらいたいものである。(2005.12.18)

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