【みすず書房】
『舞踏会へ向かう三人の農夫』

リチャード・パワーズ著/柴田元幸訳 



 まず最初に飛び込んでくるのは、一枚の白黒写真だ。
 ぬかるんだ畦道に立って右肩ごしにこちらを振り返っている三人の男――向かって右側にいるふたりは若く、左側のひとりは年齢不詳。黒いスーツにシルクハット、手にはそれぞれステッキを持っており、背後に広がる荒涼とした農地にはあまりにも不釣合いな姿をさらしている三人の男は、ある者は生真面目そうに、ある者はちょっとおどけた感じで、そしてある者はくわえ煙草のまま、おそらくそこにあるであろうカメラのレンズに視線を向けている。彼らはいったい何者で、これからどこへ向かおうとしているのか。そして写真という二次元の、時の止まった世界から観察者たる私たちに向けられているその視線の先に、いったい何を見ているのか――ドイツの写真家アウグスト・ザンダーが一九一四年に撮影したとされているその写真に、縦横無尽の物語を想像した人物がいる。リチャード・パワーズ――彼の処女作となった本書のタイトルは、すべてのはじまりとなったその写真につけられたタイトルと同じである。

 それが本書『舞踏会へ向かう三人の農夫』だ。

 本書の中でまずその写真と対面する役目を担わされるのは、伝記作家の「私」なる人物だ。シカゴからボストンへと向かう途中、電車の乗り換えのためにデトロイト――アメリカ最大の自動車工業の街――に降り立った「私」が、時間つぶしのために立ち寄ったデトロイト美術館の片隅で見つけたその写真は、抗いがたい力で彼の興味を惹きつけずにはいられなかった。そしてその瞬間、「私」はその写真に対する「観察者」となるのである。

 よくよく考えると、写真というのはなんとも不思議なものである。普通、私たちが意識することもなく、瞬間という名前とともに永遠に流れ去ってしまう時間を封じ込め、二次元の世界として複製してしまうという技術の産物に、当初は「魂を抜かれる」と本気で考える人々も少なくなかったというが、カメラが機械であり、レンズがそこに映ったものを忠実に感光板に焼き付ける、という意味で、写真はまぎれもない真実の姿をとらえるものだという認識に、異論を唱える人はいないだろう。

 しかしながら、これは私も含めるすべての人間にあてはまることだろうと思うのだが、人間を被写体としてとらえたとき、被写体たる私たちは、カメラを向けられた瞬間、レンズの視線を意識せずにはいられない。そのとき、レンズの目=撮影者の目=現像された写真を見る第三者の目は、すでに真実から永遠に遠ざかってしまっているのだ。よしんば「隠し撮り」によって、レンズを意識させない自然な姿をとらえた写真であっても、その結果生まれた写真が必ずしも撮影者の目がとらえた真実を再現しているとは限らない――ちょうど、録音された自分の声が、普段自分が耳にしている自分の声と違っていて、ひどく違和感を覚えるのと同じように。

 そういう意味では、ある写真の撮影者と、その写真の観察者は、同一の像を見ていながら、じつはまったく別の物語をその中に見出してしまう。そして当然のことながら、被写体の人生は、その人だけの物語である。本書の著者は、そうした写真が引き起こす差異を、差異のままそれぞれをひとつの物語として構築しようと試みている。ぬかるんだ畦道を行く三人の男の写真に「舞踏会へ向かう三人の農夫」という名前を与えることで、写真の撮影者たるアウグスト・ザンダーの物語、その被写体たる三人の農夫――アドルフ、ペーター、フーベルトの物語、そしてその写真を外から観察する「私」の物語が誕生した。しかし、著者の想像力はけっしてそこにとどまることはない。あるときはその写真が展示されていた場所から、世界ではじめてオートメーション工場を確立し、自動車を大衆に普及させたヘンリー・フォードの物語を展開し、あるときはその写真が撮影された時代から、第一次世界大戦に関する戦争論を展開し、さらに時代を超え、復員軍人の日におこなわれたパレードから、雑誌記者たるピーター・メイズが幻の赤毛の女を追いかけていく。さらに物語は写真をめぐる技術論や認識論、科学技術が二十世紀にもたらした文明に関する思索、サラ・ベルナールをはじめとするさまざまな歴史上の人物の伝記を生み出していき、本書のスケールは、まさに際限なく膨れ上がっていくのである。

 たった一枚の写真を中心に、四方八方にその芽を伸ばしていく物語――しかも、それらの物語たちはけっして個々に独立することはなく、いろいろな場所で、さまざまな形でつながっていく。そして網の目のように複雑に絡み合いながら成長した物語は、最後には再び一枚の写真へと収束していく。舞踏会へ向かう三人の農夫は、あまりに壮大な寄り道を経て、ラストでようやく目的地へとたどりつくのである。無限の想像力、とはよく聞くキャッチフレーズであるが、それを小説という形で実現してみせた著者の力量には、やはり感服せざるをえない。

 いかなる犬も純血種ではない。写真というものの最終的な神秘は、撮影者、被写体、観賞者という、最終結果を生む上でそれぞれ必要な三者が、たがいのまわりを用心深くぐるぐる回り、めいめい自分の都合に従って相手を定義しあうところにある。――(中略)――そして私もむろん純血種などではない。

 本書において展開される無数の物語のなかに、本筋というものは存在しない。そのどれもが本筋であると同時にすべてがサブストーリーであり、必要のない脱線であり、注釈でさえありえるのだ。実際、本書ではたったひと言で説明できることを長々と語ったり、いかにももったいぶった表現を使ったり、ジョークや皮肉のこもった言葉あそびがされていたりする箇所が随所で見られるのだが、それらのすべては最終的には一枚の写真から派生した事柄であり、それらを想像力のおもむくままに書き綴った本書の流れを追うことは、読者である私たちを、一枚の写真の「観察者」として立たせることにつながるのである。そして読者は気づくのだ。本書の中で真にその写真と対面する役目を担わされるのは、「私」ではなく、読者自身なのだということに。

 そう、その瞬間、本書は私たちの中で、私たちだけの物語を想起することになるだろう。はたしてあなたは、本書の中にどのようなストーリーを見出すことになるのだろうか。(2001.02.15)

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