【集英社】
『ジャージの二人』

長嶋有著 



 今回紹介する小説は『ジャージの二人』というタイトルである。ジャージといえば、たとえば私などは今でも寝巻き代わりに着ていたりするのだが、もともとは学校の生徒が着る体操着であるはずなのに、私のように寝巻きの代わりや、家でくつろいでいるときの普段着として愛用している人も、少なくないのではなかろうか。華美な装飾がなく、露出部が少なく、ベルトなどで必要以上に体を締め上げることもない、さらに良質のものであれば体内の汗を効率的に発散させる機能もついているジャージという衣服は、たしかに人がより運動しやすいようにと追求されてつくられたものであり、それゆえに、ともするとプライベートな時間、それも、あまり人には見せられないような時間にも着用される機会が多いというのも納得のいくものでもあるのだが、その背景には、人々がふだんの生活において、いかに身につける衣服というものに拘束されてしまっているか、という、社会生活を営む人間の悲しい性がある。

 正直な話、ジャージ姿の自分を他の人たちに不用意に見せたいとは思わない。それは、ジャージがほかの衣服とは違い、もともとあった「運動着」という狭義からはみ出して、誰の目も届かないプライベートな場所でくつろぎたいときの衣服という意味をもっているからだ。同じような衣服でも、「スポーツウェア」と表現すると、純粋に「運動着」という意味になるのに、「ジャージ」と表現してしまうと、そこからさらにいろいろな意味を付加されてしまう。そしてその付加される要素は、プライベートとしての「くつろぎ」であり、さらにはスーツやドレスといった公の場、人々の視線を気にしなければならない場とは対極に位置する場でのみ通用する衣服、という意味でもある。表の顔を大事にしている人ほど、完全なプライベートでくつろいでいる、悪く言えばだらけているときの姿を見られたくはないものだろう。

「肌寒いから長袖のジャージを着てる。アズキ色の上下。二本線が入ってて」
「うわ。だっさー」とはたして妻はいった。

 上述の会話文は、じっさいに本書から引用してきた部分であるが、ジャージの上下でいる、というのはことのほか「ださい」のだ。そう、ジャージの属性としてもっとも重大なのは、この「ださい」という印象である。本書のなかで語り手となる「僕」は、フリーのカメラマンでもある父と北軽井沢にある山荘で、とくに何をするでもなく、とくに重大な事件が起こることもなく、だらだらとした日常のような、日常でないかのような夏の時間を過ごしている。北軽井沢の山荘などと書いてしまうと、いかにもブルジョワジーの贅沢という印象が出てしまうのだが、もともと「僕」の祖母が、また戦争が起こったさいの避難所として、まだ避暑地としての性格もなかった昔に購入した土地であり、けっして「別荘」というほど優雅なものではない。妙に湿っぽくて虫も出る、モノも不足していて、風呂も薪で沸かさなければならない五右衛門風呂という場所で、どこかの小学校のジャージを着て過ごす親子――それだけでもけっこうシュールな構図ではあるが、その親子にしても、子である「僕」がすでに三十近い年齢ですでに結婚もしている、となれば、そのシュールさはさらに極まることになる。

 もし、どこかの会社に勤めて昼は働き、夜は家族といっしょの時間を過ごすというのが社会人としての「日常」であるとすれば、本書におけるふたりの生活は、その内容がいかに何気ない日々の出来事をつづっていたとしても、それは「日常」とは言えないものがある。「僕」は会社をやめてしまっているし、父もその業界では有名なカメラマンらしいのだが、本書のなかではそうした片鱗を見せることすらなく、むしろ仕事がなくて暇をもてあましている親父、という印象を漂わせている。しかも、離婚経験の有無という違いはあるものの、お互いに自身のかかえている家庭における夫婦関係が行き詰まっており、事態はけっこう切迫しているとさえいえるのである。こうした、けっして一筋縄ではいかない家庭環境、複雑な家族関係という要素は、芥川賞受賞作である『猛スピードで母は』でもおなじみのものであるが、そうした差し迫った問題や将来への不安といったマイナスの材料をすべてうっちゃるための象徴として、ふたりの着るジャージは物語のなかでじつにうまく機能している。

 しかし逃げる場所などないのだ。僕は考え直す。僕は今、現実から逃げているのではなかったか。逃げることをやめたらどうなる。トドメを刺される覚悟はあるのか。逃げるなら逃げるで、性根を据えなければ駄目だ。

 ジャージという衣服は、動きやすく着心地も悪くないものであるにもかかわらず、けっして人前には見せられない、「ださい」という要素を揃えてもいる。人々がこれを着るとき、それは小学校のように体育などでみんなが着ているときか、そうでなければ他人の目をまったく気にすることのない場所で着るときに限られてくるわけだが、社会人として経済活動も家庭生活もまともにこなせていない二人にとって、ジャージを着て生活するというのは、基本的に人と人との関係によって維持される社会に背を向けて生きることを意味している。「ださい」ジャージを着て、一日を過ごすことのできる生活――それはけっして日常とは言えないものがあるにもかかわらず、本書のなかではまるで日常であるかのように日々が過ぎていく。そして、そのあまりにも具体的な固有名詞が頻発するほどリアルな日常の描写は、その比較対照となるであろう読者ひとりひとりの、社会人としての忙しい日常について、ふと考えさせられることになる。私たちははたして、彼らのようにジャージを着ていられる場所をもっているだろうか、と。

 どれだけ問題から目をそむけたとしても、問題そのものはけっして消えてなくなるわけでも、勝手に解決してくれるわけでもない。じっさい、本書においても二人の抱える問題がどうなったのか、については何も書かれてはいない。だが、彼らのように一時的な避難所があるかどうか、というのは、けっしてささいな問題ではない気がする。人は多くの人々との関係性なしには生きられない。だが、ある特定の場所でしか携帯電話のアンテナが立たないような場所で、そうした関係性から離れて生活してみるというのも、もしかしたら人が生きていくうえで大切なことなのかもしれない。(2006.12.19)

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