【白水社】
『2666』

ロベルト・ボラーニョ著/野谷文昭・内田兆史・久野量一訳 

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 不在の感覚、というものについて、ふと考える。

 私たちにとってもっとも馴染みのある――とはいえ、そうそう何度も体験したくはないものとして、家族や親しい友人といった人たちを失ってしまった、という感覚がある。それは、あるいは死別ということもあるし、失踪という形をとることもあるが、本来であればあたり前のものとして傍にいるはずの人がいない、という喪失感は、いずれ何らかの形で決着をつけなければならない感覚でもある。だからこそ私たちは、人が死ねば葬式をあげる。その儀式は、そばにいるべき相手を失ったという喪失感を「死」の認識によって埋めるためのものでもある。こうした儀式を経ないと、私たちはその人物の死を認識できなくなってしまう。風の便りで遠い故郷の古い友人が死んだと聞かされても、その友人がもうこの世にいないという事実になかなか現実味を感じない、というのも、そうした事情による。

 殺人事件において、警察なり探偵なりがその犯人をつきとめ、事件の真相を解明するという流れも、ある意味で「喪失感を埋める」ための儀式という側面がある。理不尽に奪われた人の命に対して、その近しい立場にいた人たちは、なかなかその死を受け入れることができない。被害者はなぜ、何のために殺されなければならなかったのか――生物学的な死という事実だけが転がっているという状況から、その被害者をたしかなひとりの人間の「死」として受け入れるための儀式として、事件の真相を突き止めるという行為は重要な役割をはたす。明確な殺人事件ではなく、失踪についても同じである。失踪してしまった人が生きているのか、死んでいるのかわからないままでは、その人の不在を喪失として感じる者たちにとって、生死のはっきりしない中途半端な状況にその人をぶら下げておくことになってしまうのだ。

 あるべきものがそこにない、いるはずべき人がそこにいない――この不在の感覚は、ときに大いなる呪縛としてその人の心を蝕んでいくことであり、それはけっして歓迎すべきことではない。だがこの不在の感覚、物事を生でも死でもない、宙ぶらりんの状態にしておくというこの感覚を、文学という表現形式で、もっとも生き生きとした実在感とともに表現するという、矛盾に満ちた芸当を成し遂げた作家のひとりとして、ロベルト・ボラーニョをはずすことはできない。少なくとも私にとって、本書『2666』は不在の物語だと言うことができる。

 そんなところです、と彼は落ち着き払って言ったの。そんなところってどういうことなの? と私は叫んだ。死んでいるのか、死んでいないのか、それを訊いてるのよ、クソったれ! メキシコでは、死んでいるのかどうかについて、そんなところだとしか言えないところがあるんです、と彼は大真面目に答えた。

 全部で五部構成、上下段組で850ページという長さとなる本書の内容を、簡潔に説明するのはこのうえなく難しい。だが、いずれの部においても大きなキーワードとなるのが「不在の感覚」だという点に変わりはない。第一部において不在なのは、ドイツの作家ベンノ・フォン・アルチンボルディという人物で、彼の小説を研究している四人の評論家が中心人物として登場する。ヨーロッパ市場において、その作品内容というよりは、その謎めいた人生に惹かれる読者が多く、近年ではノーベル賞の候補にも挙がっているアルチンボルディの研究を通じて知り合うことになった四人の男女は、次第に複雑な男女関係を築いていくことになるのだが、彼らを結びつける唯一の接点であるアルチンボルディ――とくに、その晩年において彼がどこで何をしていたのかを突き止めるという目的は、結局のところ果たされることはない。じつのところ、実在の人物なのかも疑わしくなってくるこのドイツの作家が、はたして何者なのかというひとつの謎が、本書で展開される軸のひとつなのは間違いないのだが、この部において彼の「不在」という事実が、よりいっそうアルチンボルディの存在感を――あたかも彼の「背が高い」という事実を巨人のごとく想像させるかのように、一種歪んだ形で際立たせることになる。

 アルチンボルディの書いた小説が存在し、またその容姿をはじめとする、彼と接したことのある人たちの証言もある。だが、肝心の本人が不在のままであるという手法は、同著者の『野生の探偵たち』におけるふたりの詩人の表現でも使われていたものであるが、続く第二部と第三部において、このドイツの作家の軸は一時なりをひそめ、代わりにメキシコの砂漠の町サンタテレサで起こっている連続女性殺人事件の軸が少しずつ浮かび上がってくる。とはいうものの、このサンタテレサは第一部においてアルチンボルディがその滞在の痕跡を残している町でもあり、また第二部の中心人物となるチリ人の教授アマルフィターノは、アルチンボルディの専門家として第一部にも登場している。ここでの不在の象徴となるのは、彼の妻ロラであり、また彼とその娘のロサが最終的にサンタテレサにやってくる要因にもなっている。奔放な性格のロラはある突拍子もない理由でアマルフィターノの元を何年も離れ、いったんは戻ってくるものの、そのときにはエイズを患って死に瀕していた。だが、「不在」の象徴たる彼女は、「死」という自身の結末を曖昧なものとするため、ふたたび家族のもとを去るのだ。

 つづく第三部では、ニューヨークの黒人記者オスカー・フェイトが登場し、サンタテレサで行なわれるボクシングの試合を記事にするためにこの都市にやってくるのだが、彼はスポーツ記者ではない。そして彼をサンタテレサに向かわせる要因となったのも、やはりスポーツ記者の「不在」である。本来行くことになっていた記者が黒人に刺殺された代わりに、黒人記者のフェイトが、その「不在」を埋めるために向かうサンタテレサ――ここまでで、いずれの部の主要人物も、まるで引き寄せられるかのようにこのメキシコの町に向かうベクトルに乗っているという共通点が見いだせるわけだが、そこで起こっていることこそが女性連続殺人という陰惨な事件であり、フェイトが何より記事にしたがっていた事柄であり、また第四部では、まさにその殺人事件そのものが物語のテーマとなって展開していくことになる。

 ある意味でもっともミステリーに近い形式の第四部であるが、ここで「不在」となっているのは、他ならぬその連続殺人事件の真相である。この部では、じつに多くの女性が殺されたという事実が淡々と記述されていくばかりでなく、麻薬の売買や極端な貧困、あるいはスナッフ・ムービーといった、人の心の闇の部分をクローズアップしていくという大きな特長があるが、その数知れない殺人のなかには、あきらかに連続殺人とは異なる事件も混じっており、しかもメキシコ警察はその大半について、おざなりな捜査の果てに事件そのものをお蔵入りにしてしまう。もっとも、物語が進むと連続殺人の犯人としてクラウス・ハースなる男性が逮捕されるのだが、彼の逮捕後も連続殺人は続いており、結果として犯人の「不在」をいっそう強める結果となっている。

 最後の第五部は作家アルチンボルディその人が中心人物となっており、同時にこの部の存在が第一部の「不在」の回答の一部を担うことになる。彼――潜水が得意で、学校を途中でやめ、ドイツ軍の兵士として戦ったハンス・ライターがどのような経験を得て、そしてなぜ「アルチンボルディ」なる名前で小説を書くことになったのか、そして第一部の謎でもあった、彼がどんな理由でサンタテレサに向かうことになったのかが明かされることで、逆に本書の冒頭へとつながり、物語が見事な円環を成して閉じられる。しかしながら、この部においても「不在」はたしかにある。それは言ってしまえば、小説家としてのアルチンボルディそのものだ。彼がどのような理由で小説を書くことになるのか、そして小説家であるということがこの物語でどのような役割を果たすことになるのか、その意義の「不在」――もちろん、きっかけとなったと思われるエピソードがあり、また本名を名乗らないことについても一応の理由はあるのだが、いずれも小説家としてのアルチルボルディの根幹へとつながるものではない。

 こうして物語の終わりがそのまま物語の始まりへとつながる本書の構造は、必然的にその閉じた輪の内側に空白を包み込むことになる。そしてその瞬間、この物語は、その圧倒的なディテールや、いっけんすると物語の本筋とは関係のないように見える別の逸話など、数多くの物語としての要素を孕みながらも、いずれも中心に向かうことなく、周囲を堂々巡りしつづけるという、なんとも不思議な仕組みができあがることになる。しかも登場人物たちのベクトルは、その中心たるサンタマリアへとたしかに向かっているのだ。女性ばかりを狙った、あきらかにレイプされた跡のある死体が大量生産される連続殺人の中心地であるサンタテレサについて、本書のなかに象徴的な箇所がある。

 この連続殺人のことなんか誰も気に留めていないけれど、そこには世界の秘密が隠されている。

 さまざまな登場人物のさまざまな「不在」を縦横に紡ぎ、語るべきテーマそのものを「不在」にしてしまった本書は、しかし他ならぬその「不在」をありとあらゆる言葉、ありとあらゆる要素で埋めていくことで、その存在をこのうえなく明確に示すことに成功した。悪夢があり、精神病院があり、狂った人がいて、料理のレシピがあり、芸術があり、異性を求める心があり、戦争によって蝕まれた心がある。それはまさに、ひとつの世界といってもいいものだ。はたしてあなたは、このとてつもない物語が抱える不在の感覚を、どのように捉えることになるのだろうか。(2013.10.04)

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