【新潮社】
『二十歳の原点』

高野悦子著 



 今回はちょっとだけ本音をまじえたことを書いておこうと思う。
 携帯電話をもつようになってから、以前から私の部屋にある加入電話は、今では見知らぬ人間からのキャッチセールス目的の電話しかかかってこなくなり、よほどのことがないかぎり電話が鳴っても受話器をとるようなことはないのだが、ある不動産関係のキャッチセールスで、「まったく興味がない」という私の言い分に、「話も聞いていないのに、なぜ興味がないなどと言えるのか」と切りかえしてきた奴がいた。

 どうにかして相手に話を聞かせようとするためのものとはいえ、まるで玩具を買ってもらえずに駄々をこねる子どものようなその思考に、私はしばし呆然とさせられたのだが、そのとき私がふと思ったのは、「なぜ話を聞かないのか」という文句を「なぜ生きているのか」と変えてみたら、どうだろうか、ということだった。

 人は、他人のもつ自由を阻害するようなことがないかぎり、基本的には何をしようが自由である。それこそ、生きることも自由であれば、死ぬことも自由だ。だが、少なくとも「生きる」ということについては、私たちが今まさにそうしていることでもある。私は生きている。死んでいないのだから、生きている。「なぜ生きているのか」という命題は、逆に言えば「なぜ死なないのか」ということでもある。人は基本的に自由であり、そのなかには死ぬ自由もふくまれているはずなのに、なぜ死ぬという自由を行使しないのか。そこまで考えて、私はその命題に明確な答えを出すことを放棄した。「そんなことに理由なんかいるか!」。私は今生きているのであり、そのことにわざわざご大層な理由をつける必要性を感じない。今のところは、それでいいと思っている。

 だが、そこに他ならぬ「自分自身が」という条件がつくと、とたんに事情が変わってくる。上述の思考は、人間をあくまで「人間」という総体でとらえたもの、つまり自分も、自分以外の数多くの他者も、同じ価値をもつものとして考えたときのものであるのに対し、「自分は何者で、なぜ生きているのか」という命題には、自分がこの世のオンリーワンであること、かけがえのない自我であるという認識がある。もちろん、そんなものはただの幻想だと突っぱねるのは簡単だし、それが真実であるのだが、そのことを頭で理解することと、自身の感情がとらえることとは必ずしも一致するわけではない。だから人間は、相変わらず「なぜ」と問わずにはいられないのだ。自分は何者なのか、そして自分は何のために生きているのか、と。

 本書『二十歳の原点』について、まず述べなければならないのは、書き手である高野悦子が本という形で出版されることを意図して書いたものではない、ということである。著者自身は1969年6月29日未明に、まだ二十歳という若さで鉄道に飛び込んで自殺を遂げている。その後、著者の部屋から見つかったノートには、自殺する二日前までのことが書かれていたノートが見つかり、その内容を出版物として刊行したのが本書である。全国の大学で学園闘争が激化していた当時、そうした活動に積極的に参加していたと思われる著者の自殺、そして残された手記の出版という一連の事件は、その時代に著者と同じく青春期にあった人たちには相当にセンセーショナルな出来事であったらしく、本書は飛ぶように売れたという。

 今、日本での自殺者は年間で3万人を超え、それは世界でもトップクラスの自殺率だそうである。けっして自慢すべきことではないが、若者の自殺そのものは、すでに珍しいことではなくなっているのだ。それは一面においては恐るべきことではあるのだが、こと本書を読んでいくにおいて、その内容をたんなる「自殺者の手記」としてとらえるだけでは、本質を見落とす恐れがある。じっさい、本書を読み終えても、けっきょくのところなぜ著者が自殺という道を選んだのか、はっきりしたところはわからない。むしろ、失恋のショックが引き金となって、発作的に自殺をはかったという見方ができそうな箇所もあるのだが、そもそも人がなぜ自殺をするのかなど、赤の他人である私たちにはわかるはずもないし、警察のようにその動機を適当な言葉で結びつけてしまうのは、いかにも乱暴である。むしろ、本書を読んでわかってくるのは、ひとりの人間として、文字どおりの「まぎれもない自分」と真摯に向き合おうと苦悩し、そして挫折してしまった、心のひりつくような痛みである。

「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。

 自分は他の誰でもない、まぎれもない自分自身である、という強い自我――他の何ものにもけっして影響されることのない、揺るぎない自我の獲得のために、まず認識すべきこと、それが著者にとっては「独りであること」であり、「未熟であること」であった。「独りであること」とは、自分という個を形づくるさまざまな属性、たとえば家族や組織、グループといった自分の周囲にあるさまざまな環境から自分を完全に切り離さないかぎり、まぎれもない自分自身の考えや意見などは見出すことができない、という意識であり、「未熟であること」とは、逆に自分を規定してくれるものに甘んじてしまう心の弱さである。本書を読んでいくと、著者は小さい頃から両親や学校が期待している「良い子」を演じつづけていた自分を強く意識しており、それゆえに、自分というものが自分の意思ではなく、周りのあらゆるものによって勝手に定められてしまったという思いがあるように思えるのだが、著者のそうした思考が、現体制の打倒と自己改革を目指した学園闘争の流れとピタリとあてはまり、何より自分が自分でありつづけるためにそうした活動に身を投じていったことがわかってくる。

 だが、それは逆にいえば、著者の青春時代がそこでなかったとしたら――学園闘争という潮流が当時ほど激しくなかったとしたら、はたして著者は家族と決別し、自らを死に追いやってしまうほど自分自身を追いつめていっただろうか、という疑問にもつながっていく。そういう意味では、著者もまた時代という、自分の外にある何かに自我を大きく揺さぶられたということであり、それは何より「まぎれもない自分自身」を確立したいと願った著者にとっては、皮肉以外のなにものでもないのでは、と思ってしまう自分がいる。

「なぜ話を聞かないのか」と切りかえした見知らぬキャッチセールスに幼稚さを感じたのと同じように、「自分は何者で、なぜ生きているのか」という問いかけもまた、いかにも若い人たちにありがちな、未熟なものである。だが、その問いかけに全身全霊をかけて向き合おうとしたひとりの女性の、そのひたむきさは、本書をつうじてたしかに大勢の人たちに何かしらの影響を与えた。そしてそれは、過去の時代の遺物としてではなく、現在を生きる人たちに、普遍的に通じるものでもあると確信している。(2005.11.14)

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