【新潮社】
『1Q84』
BOOK 1/BOOK 2

村上春樹著 



 この書評をつうじて何度も繰り返してきたことのひとつとして、人はひとりでは生きられない、というものがある。人間ひとりひとりの力は弱く、おのずとできることには限界がある。だからこそ、人々はひとつのところに集まって集落をつくり、お互いに誰かを支えたり、あるいは誰かに支えられたりして生きてきた。それは、現代社会においても基本的には変わりない。だが、今を生きる私たちが自身を社会の一部であると実感するには、今の人間社会はあまりに複雑で、大きくなりすぎてしまった感がある。自分たちの意見や主張が、私たちの生きる社会制度に直接届き、たしかに何かが変わったと感じることはこのうえなく難しい。それは、選挙における自分の、たった一票の権利にどれだけの重みがあるのかを実感するのが難しいのと、よく似ている。

 私たちはたしかに人間社会のなかで生きていて、相互扶助によってお互いに支えあっているはずなのに、まるで自分が世界でたったひとりであるかのように思えてしまうのは、社会の大きさに対して自分という個人の存在があまりに小さすぎるからに他ならない。おそらく、私ひとりがこの世界から消えてなくなっても、世界は何ら変わりなく機能していくはずだ。そしてそれは、推測ではなくまぎれもない事実でもある。そんなふうに考えたとき、私たちは自分がまぎれもない自分自身であることを維持していくために、何か支えになるもの――社会の一員であるとか、自然の一部であるとかいった抽象的なものではなく、もっと具体的で、たしかな実感をともなう何かを必要とするようになった。自分がけっして世界の中心ではなく、また世界の中心たる共通認識もなく、ただそれぞれがそれぞれの感じ方や考え方を取捨選択していくしかないという相対主義の時代において、死んだ神に代わって何を拠り所とするべきなのか、というのは、現代に生きる私たちに与えられた重要な命題のひとつでありつづけている。

 1Q84年――私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう。青豆はそう決めた。
 Qはquestion markのQだ。疑問を背負ったもの。

 今回紹介する本書『1Q84』は二冊組みで、「BOOK 1」は4月〜6月、「BOOK 2」は7〜9月というふうに、物語のなかで流れていく月日が指定されている。つまり、この二冊を読み終えた時点で物語は約半年分進むことになるわけだが、その半年間の物語の舞台となるのは、私たちがよく知っている過去の日本――1984年の東京ではない。似て異なる1984年である。そして、そのことに最初に気がついたのは、青豆という名の女性である。

 彼女は砧からタクシーに乗り、タクシーは首都高速道路に乗って渋谷を目指していたが、途中で渋滞に巻き込まれていた。彼女にはどうしてもはたさなければならない用事があったが、渋滞は個人の力でどうにかできるようなものではない。そのとき、タクシーの運転手が高速道路の脇にある非常階段のことを教えてくれる。そこから下りて、近くの東横線に乗れば、渋谷まで行けると。結果として、青豆はその「非常手段」を試みることになる。そして階段を下りたとき、世界が微妙に改変されていることに気づく。
 警察官の制服が変わり、拳銃が新型になっている。アメリカとソ連が共同で月面基地を建設している。そして、警察官の装備を新調させるきっかけとなった、本栖湖での過激派との銃撃戦。それらの情報は、常に注意深く新聞をチェックしているはずの青豆の記憶にないものばかりだった。

 なんらかの理由で、本来慣れ親しんできた世界とはとてもよく似ていながら何かが決定的に異なる世界――まるで、パラレルワールドを思わせるような別世界に入り込んでしまった青豆は、はたしてその世界で何を成すことを求められているのか。本書はそんな彼女を主体とする物語とは別に、もうひとつの物語が対になって進行していく。それは、川奈天吾という男を主体とするもので、予備校の塾講師として数学を教えるかたわら、小説を書いては新人賞に応募する、という生活をつづけている。その過程で小松という名のクセのある編集者と故意になり、新人賞の下読みの仕事といった細かい仕事を回されるようになったのだが、今回彼らのあいだで問題となっているのは、『空気さなぎ』というタイトルの新人賞応募作品である。

「ふかえり」こと深田絵里子が書いたとされるその応募作品には、他の作品にはない何か、人の心を強く惹きつける要素がある。だが同時に、この作品はそもそも文学作品を書こうという姿勢が皆無で、文章としてはひどいレベルにとどまっている。そこで、小松はあるアイディアを提案する。それは、作者の許可を得たうえで、天吾が文章に手を入れて、新人賞をとれるだけの作品に仕立て上げてしまおう、というものだった。

 青豆と天吾――このふたりの物語が対になって書かれている、という点が、本書の大きな特長であり、同時に物語の重要な骨子にもなっている。これまで私が読んできた村上春樹の作品において、主人公は常に孤独であり、またその周囲には常に死の匂いがあった。そして物語は、どこかへ向かうというよりは、むしろどこにも向かわないまま停滞し続けていく、というものが圧倒的に多かった。それは、主人公となった人物の性質として、積極的に世界とかかわり、何かを成そうとする気持ちが希薄だから、ということもあった。

 自分と世界との関係、その距離をどのようにとればいいのかわからない、ある種の不器用さというのが、村上春樹の作品にはあった。本書においてもそれは例外ではない。かつては数学の神童と言われるほど頭が良く、また体つきが大きく柔道でもかなりの好成績を残したものの、今ではしがない塾講師という天吾は、その状況に不満があるわけではないが、これから自分がどのようにして生きていくべきなのか、という方向性を見出せないでいる。青豆については、状況はさらに悪い。何しろ彼女はある信念のもとに、弱い女に繰り返し暴力をふるうろくでもない男を、誰にもその死因を怪しまれないやり方で暗殺することを請け負っているのだ。理由はどうあれ、幸福な未来を思い浮かべることが難しいふたりであり、また天吾にしろ青豆にしろ、過去にあまり幸福ではない子ども時代を過ごし、両親とはまだ若いうちに決別して、長くひとりで生きてきた、という共通点をもっている。

 繰り返しになるが、物語が一対であるというのが、本書の骨子である。そしてこうした一対の組み合わせは、天吾と青豆という一対にかぎらず、本書のなかにはいくつも見出すことができる。1Q84年の世界を象徴するふたつの月などがその典型であるが、他にもこの物語の重要な要素を担うものは、大抵がふたつでひとつという特長をもっている。「さきがけ」と「あけぼの」、パシヴァとレシヴァ、マザとドウタ、そして1984年と1Q84年―― 一対であるということは、対になってはじめて形としては完成するということであり、片一方だけでは不完全だということでもある。

 私たち人間は、ひとりでは生きていけない。それは、ひとりの力があまりにひ弱だからということではなく、ひとりであることが何かの欠けている状態だから、という状況を再構築するためにこそ、1Q84年という別世界が用意され、そして本書の物語が書かれた。じっさい、対であることが基本である1Q84年において、物事は大抵の場合、単独ではなく誰かと誰かが対となることで物語が進んでいくことが多い。その最たる例が天吾とふかえりが対になって完成させた『空気さなぎ』である。そして、そのような過程を経て形を経た『空気さなぎ』が、さらに深いところで物語を思わぬ方向へと展開させることになる。

 本書のなかで、天吾と青豆はお互いの対として設定された。それは、物語のもっとも根本となる、重要な対だ。そして対であるからには、お互いが出会い、補完しあうような関係にならなければ意味をなさない。はたして、対となったふたりの関係をどのような形をもって描いていこうとしているのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2009.08.15)

ホームへ