【理論社】
『一億百万光年先に住むウサギ』

那須田淳著 



 一光年というのは、光が一年間に進むことのできる距離のことを言うのだが、光が一秒間に地球を七周半もすることを考えると、この単位がどれほど途方もない数値を指し示しているかが想像できるかと思う。まして、こんな単位を標準にして物事が進んでいく宇宙のこととなると、まさに想像を絶するとしか言いようがなくなってしまったとしても、少しも不思議ではない。私たちにかろうじてわかるのは、私たちの存在がどれほどちっぽけなものでしかないか、といった程度のことでしかないのだ。

 この広大無辺な宇宙をひとつの単位として、私たちという確かな個の存在が、今ここに存在していることの奇跡を説く話を、私は何度か耳にしたことがあるのだが、仮にその話が宇宙の真実を語るものであったとしても、そのことで私たちが今現在直面しているさまざまな問題が一気に解決されるわけでもなければ、それで物事がすべてうまくいくというわけでもない。宇宙がどれほど広大なものであれ、自身の存在がどれほどの奇跡であれ、私たちの大半は今、目の前の現実を生きるのに精一杯というのが実情だ。だが、そんな光年単位で物事が展開していく世界のことを想像するのは、けっして無駄なことではない。むしろ、それは私たち人間だけに許された特権だと言ってもいい。どんなにちっぽけなものであったとしても、私たちひとりひとりの存在もまた、そうした広大な世界の一部であるという事実――それは、目に見える現実と対峙していく毎日に慣れてしまった大人たちよりも、子どもたちにとってこそ、より大きな意味をもつことになるだろうし、そうした事実をまぎれもない自身の生活の一部として結びつけるだけの柔軟な想像力を、彼らはたしかにもっている。

 人が宇宙を目指すのは、なにも技術革新のためだけではないだろう。宇宙には真理がある。それを求めて旅立つのに違いない。少女たちが、桜の古木を見て、そこに一億百万光年先からやってきた聖なるウサギが宿っていると感じたことがなんとなくわかるような気もした……。

 本書『一億百万光年先に住むウサギ』に書かれているのは、そんなとてもちっぽけな人間たちの話である。それこそ、ここで書評をご覧になっている大人たちが何らかの形で体験してきたような、そんなごくありふれた少年少女の成長や、淡い恋心や、あるいははるか遠いものに対する憧れや未知のものへの不安や好奇心といったものをたくさん詰め込んだ、そんなお話である。本書のタイトルになっている「一億百万光年先に住むウサギ」というのは、ドイツに伝わる「恋樹の話」に触発された女の子たちが、住宅地のなかに取り残された緑地の森に生えている一本の古い桜の木の精霊につけた名前であり、その「恋樹の話」のことを教えた元ドイツ文学教授の足立孝三郎は、それ以来その精霊のお使いとして、彼女たちの恋の相談役を引き受けていた。

 桜の木を中継点として、手紙のやりとりのみを通じて行なわれる言葉の交換――それは、いかにも少女趣味を思わせる幼稚でメルヘンチックな行為ではあったが、女子大の教授を引退したこともあって、彼はそうした少女たちの一種の儀式に真摯に対応していた。本書における一人称の語り手となっているのは、もうすぐ高校受験を控えている大月翔太という名の少年で、足立先生とは「便利屋サスケ堂」の派遣サービス手伝いという形で知り合うことになったのだが、最近足を悪くした先生の代わりにその手紙を桜の木の下に届けに行った翔太は、その手紙のそもそもの相手が「便利屋サスケ堂」の娘で同級生のケイであることを知る。彼女はなぜか翔太を目の敵にしているふうで、ふだんから近寄りがたいところがあったのだが、そのとき彼が見たケイは、何かに深く思い悩んでいるようだった……。

 物語は当初、ケイの親友であるドイツからの留学生マリー・ラインハルトが巻き込まれた盗難事件に対して、ケイや翔太、それに「便利屋サスケ堂」のオーナーである佐助がその事件の解決に力を貸すという形で進んでいくのだが、それと平行するようにして、最初はよくわからなかった登場人物たちの思わぬつながりや、その過去における関係性が見えてくるような構造をとっている。かつて縁を切ってしまって以来、行方がわからずにいる足立先生の息子俊彦のこと、その彼に娘がいて、それがマリーであり、彼女もまた俊彦を探していること、親子の仲たがいの原因となった、当時妊娠していた女性のことと、そんな俊彦とかつて親しい関係にあったという佐助と妻の久美のこと――そこに描かれているのは、遠い星から来た不思議なウサギを中心にしたメルヘンチックな世界とは裏腹の、ディープな大人の人間関係である。

 翔太自身の家庭の事情も、けっして平穏なものではない。トランペット奏者だった父は東京のオーケストラを解雇されて以来、とくに再就職のために動くようなこともなく、無気力な人間になってしまい、今では母がかつてのマスターから受け継いだ横浜のコーヒー専門店の経営が収入源となっている状態であるし、翔太自身にしても、横浜の中学に転校する前は絵画に興味をもち、また指導の教師にその才能を有望視されていたにもかかわらず、今ではそれが本当に自分の進むべき道なのか、絵画がほんとうに好きなのか、という点に思い悩み、久しく絵筆をとらないままでいる。翔太の周囲にしろ、ケイの周囲にしろ、けっして憧れや夢だけで片づけることのできない厳しい現実が横たわっている。誰かに恋をし、あるいは夢を追いかけて、しかしそれが、必ずしも当人の境遇を良くしてくれるわけではなく、かえって誰かを不幸にしたり悲しませたりする結果を生み出すこともある――足立先生や佐助といった大人たちが抱えているのは、そういう現実である。そして、そんな厳しい現実がおぼろげながら見えてきたとしても不思議ではない微妙な年齢に、翔太もケイも達している。

「この世に偶然なんてないのだよ。人との出会いもそうだな。出会うべくして出会っている。――(中略)――出会いというものを通じて、人は何かを学ぶ。肝心なのは、そのとき、あとで後悔するようなことをしないということじゃないかと思う」

 完全な大人というわけではない、かといって純粋な子どもというわけでもない少年少女たちの心は、メルヘンチックなウサギが住まう世界と、けっして思いどおりにはならない大人たちの現実とのあいだを常に揺れ動いている。そういう意味では、本書はそんな不安定な少年少女たちが、次第に自分たちの意思で未知の世界への第一歩を踏み出していく成長の物語であり、人と人とが出会い、そのときに生じる気持ちや想いを育んでいくということを知っていく物語でもある。そして、本書のもっとも大きな特長は、作中でしばしば引用される「ケ・セラ・セラ」に象徴されるように、そんな少年少女たちの歩みに対して「なるようになる」という形で静かに見守っていこうとする雰囲気に満ちている、という点である。

 本書のなかで、佐助や久美、俊彦たちの経てきた過去は、翔太やケイの未来と呼応するものである。だが、そのことが翔太やケイの今後を決定してしまうわけではない。先のことなど、けっきょくは誰にもわからないが、そのことを必要以上に怖れることもない。そういう意味では、いまだ不思議なウサギの庇護のなかにある幼い心に、外へ向けて歩き出すための勇気が本書のなかにはたしかにあると言うことができる。(2007.07.14)

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