【ぴあ】
『百年の誤読』

岡野宏文・豊崎由美著 



 読書家のはしくれとして、ベストセラー本に手を出してしまうのは、安易に流行に流されてしまうような気がしてなんとなく嫌だ、という気持ちは昔からあったし、今もそれなりにもっているつもりではあるが、二十世紀の百年を十年ごとに区切り、その時期にベストセラーとなった本を取り上げては、対談形式で好き勝手に語り尽くす、という壮大な試みに挑んだ本がある。それが、今回紹介する本書『百年の誤読』なのだが、本書を読んでいてつくづく感じるのが、著者であるふたりの、本の読み方に対するひねくれ具合である。まるで大河ドラマを観るさいに、合戦中の武士が身につけている鎧が新品同様ピカピカなのに気になって仕方がないひねた視聴者のように、じつに細かい、ある意味どうでもよさそうな部分にピントを合わせるような読み方なのだが、そのピントの合わせ方に独自のセンスがあるからタチが悪い。つまるところ面白い。

 そのタイトルに「誤読」という単語をつけており、著者ふたりがあくまで好き勝手に過去のベストセラー本を批評する、という意味では間違いではないのだが、彼らの誤読はほぼ確信犯的なものだ。というのも、そもそもある本をどのように読むのかについては、それを読む人にゆだねられており、「正しい読み方」なるものがあるとは、ふたりとも思っていないからである。言い換えれば、私たちは誰もが好き勝手に本を「誤読」してしまうのである。ただ、ことベストセラー本にかんしては、そこに書かれたことをそのまま受け取ってしまうのは芸がない。何百万部も売れた本、おそらくは、ふだん本を読まないような人たちがこぞって手にとった本について、いかにひねくれた視点で解釈するのかが、本書の真骨頂だと言える。

 もっとも、本書を読んでいくとおのずと気がつくことであるが、語り手ふたりはただたんにひねくれた読み方をしているわけではなく、本を批評するための多大な知識を有している。私などは、ともするとその本に書かれた内容だけを読み取って書評を書くというスタンスをとってしまいがちなのだが、本書にかんしては、たとえばその本が書かれた時代背景や、その本の書き手の人物像、そしてその本が出版されることで社会にどのような影響をおよぼしたのか、といった多角的視点でもって、ベストセラー本を解釈し、あるときは面白いと絶賛し、あるときはメッタ切りにしてしまう。それゆえに、語り手ふたりの批評に大きな説得力が生まれてくるのであるが、ときどきその多角的視点がねじまがって、著者の顔にまで文句をつけたりすることがあり、正直批評される側が気の毒になるときもある。

豊崎 大体、顔が高村光太郎ってステキな名前にそぐわない。長くてひしゃげてて、市場に出せない曲がったキュウリみたいだもの(笑)。そんなご面相で恋愛詩書いちゃいけません。

 本を褒めるときよりも、本をけなすときのほうが、基本的に饒舌、というより生き生きとしているのは、まるでつまらないベストセラーを読まされた腹いせでもあるかのようで、人によっては不快になる可能性もあるのだが、ひとつ考慮しておきたいのは、本書で取り上げられた本たちが、基本的に「ベストセラー」である、という点だ。つまりその本は、たとえば石原慎太郎の『太陽の季節』のように、その時代に大きな影響を与えたということでもある。私は基本的に、小説なりエッセイなりを一冊の本としてまとめあげることができる人に対して、最大限の敬意をもっているのだが、たとえば穂積隆信の『積木くずし』について、それを出版すること自体が親の子に対する「虐待」であると断じているのは蒙を啓かれた思いである。一冊の本に対して、こうした批評ができるのは、まさにさまざまな角度から本を読み込むことができるだけの知識とセンスがあるからこそのものだ。

 本書のまえがきによれば、この対談の企画がはじまったそもそもの要因として、最近のベストセラー本があまりにも「ご無体な本」ばかりだという嘆きを挙げ、では過去のベストセラー本も今と同じようにくだらないものばかりだったのか、というある種の検証としての要素がある。ゆえに本書には、二十世紀の日本の社会現象を振り返るという側面もあるのだが、読んでいて面白いのは、これは本書のなかで語り手のふたりも指摘しているのだが、ある時期を機に、ベストセラー本の質がガクンと落ちているという事実である。

岡野 日本文学全体のレベルが落ちてるってことなのかな?
豊崎 そうじゃなくて、レベルの下層部がどんどん厚みを増していってるんじゃないですか。八〇年代はたとえば三メートルの層だったのが、今は十メートルになってる、みたいな。

 ゆえに、以前は下のほうに置かれていた村上春樹の『ノルウェイの森』が、相対的に底上げされて評価できるようになる、と続くわけだが、そうでなくとも本書を読んでいて見えてくるのは、古い時代のベストセラーについては、けっこうふたりのあいだで意見が分かれることが多いのに、時代が下ってくるにしたがって、だんだん評価が分かれることがなくなり、良いなら良い、ダメならダメとふたりの主張が一致してくるようになることだ。人は誰でも本を「誤読」するものだ、と私は上述したが、良い作品というのは、プロの書評家であってもさまざまな見解が出てくる、言い換えれば、読者にいろいろな読まれ方をされるものだということである。逆に近年のベストセラーについては、ボロクソにけなされるならまだマシなほうで、場合によっては「語ることがほとんどない」と言われてしまうものまで出てきたりする。

 けっこうやりたい放題というイメージが強い本書なのだが、たとえば乙武洋匡の『五体不満足』を批評するさいには、個人を責めるつもりはないと断りを入れたりといった姿勢もあり、また本書下部を占めている注記が、じつは注記という形をとったツッコミだったりしていて面白い。何よりこうした注記があるということは、対談をしたふたりが文章化された自分の言葉を、あらためて見直しているということ、かつ対談で発した言葉そのものには、あえて修正を入れなかったことを意味する。こうした覚悟、潔い態度がほの見えるからこそ、やりたい放題でありながらギリギリのところで嫌味にならず、むしろ清々しささえ感じられるものとなっている。

 最近のベストセラーがベストセラーたる所以、そしてそのベストセラーがことごとく本書の著者たちには受け入れられないものとなっている所以について、意想外に深く考えさせられる要素があると、少なくとも私は感じた。そしてそれは、まさにふたりの思うつぼでもあるのだろう。本書を読む人は、『百年の誤読』というタイトルに良い意味で騙されてもらいたい。(2014.08.23)

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