【河出書房新社】
『百頭女』

マックス・エルンスト著/巌谷國士訳 



 たとえば、小説における挿絵の役割といえば、小説のなかに書かれている物語の内容を、読者に想像してもらう手助けをするためのものであり、それゆえに挿絵はあくまで小説の副産物であってけっしてメインではない。絵本はもちろんのこと、児童書に挿絵が多いのは、まだ文章を読解する力の不足している子どもに、より読書というものに親しみをいだいてもらおうという意図があるからであり、それゆえに成長とともに文章の理解度も高まった子どもは、いち早く児童書から普通の小説――挿絵のない、文章だけの小説へと読書の幅を広げていくことになる。

 本来、言葉のみの力をもちいて物語世界を構築する表現形式である小説に、挿絵は必要のないものである。だが、たとえば富士見ファンタジーや角川スニーカーといった、いわゆるライトノベルにおける挿絵というものが、たんなる物語読解の補助というよりは、むしろコミックの絵柄に近い役割をはたしているという事実をとらえたとき、私たちはあらためて、画像が人間にもたらすインパクトについて考えざるを得なくなる。じっさい、今のライトノベルにとって表紙絵や挿絵がなくなったとしたら、それはもはやライトノベルとはいえないものと化してしまっているほど、その結びつきは強固なものであるのだが、それでもなお、挿絵はやはり挿絵であって、そこに描かれるものは文章によって構成される物語の範囲を逸脱するものではない、という性質は変わらない。

 さて、今回紹介する本書『百頭女』が、はたして純粋な小説と言えるのかどうか、私にはどうにも判断ができないことを、ここに白状しておかなければならない。なぜなら、本書の構成は小説における文章と挿絵の関係が完全に逆転したものであり、つまり、本書の中心になっているのはあくまで挿絵のほうであるからだ。

 まるで『不思議の国のアリス』に描かれている挿絵を思わせるような、写実的でありながらなどこか現実味のない(あるいは超現実的ともいうべき)挿絵に、申し訳程度の脚注らしき文章が添えられたページがえんえんとつづく本書は、見方を変えるなら、何らかのテーマに沿って並べられた画集といってもいいような体裁になっているが、こうした挿絵を眺めているうちに、じつはこれらの挿絵がいくつかのイラストを組み合わせて作られたコラージュであることが、おぼろげならが見えてくる。風景画のなかに幾何学的な設計図のようなものがまぎれこんでいたり、あきらかにペンタッチの異なる――それどころか遠近法さえも無視したような人物像が並んでいたり、あるいは一種の騙し絵のような構図が組み込まれていたり、生身の体と機械が融合しているかのような絵になったりしているこれらの挿絵は、まるでシュルレアリスムを思わせる奇妙さに溢れているのだが、そもそもシュルレアリスムが「過剰な現実」であり、私たち人間が普段はとらえることのできないもうひとつの現実、いわゆる超現実を形にしようとする芸術運動であると考えたとき、本書のコラージュによる挿絵の連続もまた、同じようにもうひとつの現実を創造するための、ひとつの試みであることが見えてくる。

 本来であれば、何か別の小説の挿絵であったり、説明書であったり、あるいは何かのパンフレットのために描かれたイラストを組み合わせることで、本来の意図とはまったく異なる意味をそこに付加しようとする本書のコラージュ集が目指しているもうひとつの現実――それがどのようなものであるのかは、おそらく本書を見る人によって変化していくもの、けっしてひとつの解釈にとらわれない、無限に平行していく重層的なものであろうことは想像できる。ただ、ひとつだけ言えるのは、おそらく本書が編纂された当時も――あるいは今もなお支配的であるキリスト教的世界観を、真っ向から打ち消すような現実が、本書のなかにはある、ということである。

 もっともわかりやすいのは、本書の第一章にある最初の数枚のコラージュで、「犯罪か奇蹟か――ひとりの完璧な男」と題された挿絵がキリストの降誕であり、にもかかわらずその後の三枚の挿絵が、マリアの処女懐胎がことごとく失敗する様子を描いている。つまり、本書のなかにある世界とは、キリスト教的な価値観に縛られることのないもうひとつの現実、ということであり、それゆえに本書にはたびたびキリスト教的な象徴が、しかしけっして神聖なものではないものとして使われることになる。では、そこには何があるのかと言えば、何の力もないひとりの老人「永遠の父」と、鳥類の王であるロプロプ、騒乱を象徴するジェルミナル「百頭女」、そして多くの幽霊たちである。

 神の威光は地に落ち、世界は動乱に見舞われ、人々は堕落し、ロプロプは世界を混沌に陥れ、そして世界は破壊と再生を繰り返していく――私の絵画やヨーロッパのイラストに関する知識は乏しいものであるが、私が本書のコラージュの連続のなかに垣間見たのは、どこか退廃的で、どこか非現実的でありながら、しかしどこかでこの現実とのつながりを感じさせるイメージである。そして、本書のタイトルにもなっている「百頭女」――それは文字通り百の頭をもつ女性、つまり、コラージュによって無限の意味を付加することができることであり、けっしてひとつの意味にとらわれないことの象徴でもある。

 普通の小説に挿入される挿絵のように、けっしてただひとつの意味だけにとらわれないコラージュ集である本書は、それゆえに見る人によってはまったく違った印象、まったく違った世界、そしてまったく異なる物語を奏でることになる。最後に、「百頭女」にかんする引用を載せておくが、あるいはそれこそがもっとも真実を言い当てているのかもしれない。

 あの猿に聞いてごらん――百頭女って誰なの?
 教父さまみたいに彼は答えるだろう――百頭女をじっと見つめるだけで、わしにはあれが誰なのかわかる。
 ところが君が説明を求めるとそれだけで、わしにはその答えが分からなくなってしまのじゃ。

(2006.08.26)

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