【新潮社】
『1000の小説とバックベアード』

佐藤友哉著 
第20回三島由紀夫賞受賞作 

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 小説というのは、けっきょくのところ虚構が書かれているものでしかない。だが、私たちはときに、その虚構の世界に心を奪われる。興奮したり、感動したり、あるいは笑ったり泣いたり――それはたしかに現実の世界でじっさいに起こったことではないし、私たちの日々の生活とはつながっていない。小説のなかで戦争や大災害や、猟奇的殺人事件が起こっても、それはあくまで小説のなかの出来事でしかない。だが、現代の日本において、おそらく誰もが気軽に使っている書き言葉によって綴られた小説が、ときに現実以上に私たちの心を震わせ、突き動かしていくことがあることを、少なくとも私は知っている。

 私たちが生きていかなければならない現実は、たったひとつだ。だが、主観から逃れられない運命にある私たちが認識できる「現実」は、その知識の量はともかくとして、じつはそれほど広いものではない。逆に言えば、私たちは自分たちの生きる世界――まぎれもなく実在し、私たちの日々の暮らしにリンクしている現実について、何かを知っているようで、じつはほとんど何も知らないに等しいものであるし、じっさいに、そうしたことを知らずとも生きていけたりする。地球が太陽のまわりを回っていようとそうでなかろうと、あるいは地球が球体であろうと平面体であろうと、あるいは巨大な亀の上にあろうと、自分たちにとっての「現実」を生きていかなければならないことに変わりはないのだ。だが、その狭い「現実」のなかで追い詰められてしまうようなことがあったときに、それ以外の世界があることを実感として知っているのと、そうでないのとでは、心の持ちようはだいぶ異なってくる。

 小説はたしかに、ただの虚構でしかないが、それでも本当にうまく書かれた小説の世界は、虚構ではあるが同時にもうひとつの「現実」であり、別世界のひとつでもある。そしてその別世界での出来事が、私たち読者の心に作用し、その作用が私たちを行動させ、それが「現実」を変えていく原動力となる。もちろん、そうした心の作用は、小説でなくとも生じるものではあるが、書き言葉のみでもうひとつの世界を構築し、人の心を動かしていく小説というものを考えたときに、そこに何か特別なものが感じられたとしても不思議ではないし、そうした力を信じたいという想いについても、理解できるものがある。

 この世に小説という概念が誕生してから、何十何百何千何万何億何兆何京冊と刊行されてきたけれど、バックベアードに云わせると、本当に小説と呼べるものは、一〇〇〇冊だけらしいんです。

 本書『1000の小説とバックベアード』について、ひとつたしかに言えることがあるとすれば、それは小説というものに対する特別な思い入れがあって、それが物語の原動力となっているという点である。本書の世界において「小説」という言葉は、私たちのいる現実世界におけるそれとは異なり、もっと神聖視されるべきもの、あるいは高尚なものであってほしいという祈りのようなものが込められている。そして、そのことを端的に表わしているのが、「片説家(へんせつか)」という職業である。

 本書に登場する語り手の木原はもともと「片説家」であり、「ティエン・トゥ・バット」という会社の社員として働いていたが、二十七歳の誕生日にその会社をクビになり、同時に「片説家」でもなくなったところから物語がはじまる。「片説家」とは、数人のグループを組んで物語を制作する集団で、自由業ではなく会社員であり、読み手は不特定多数ではなく、個人の依頼人である。つまり、たったひとりの個人のために書かれ、心の傷を癒したり精神的疲労を回復させるのが「片説家」の役目であり、それは文筆業というよりは、心理カウンセラーに近いものがあると言うことができる。

 つまり、「片説家」が書く物語には明確な目的があり、その目的をはたすためだけに築かれる文章だ。不特定多数の読者に読まれることが前提と小説とは異なり、ある個人のみに向けられているがゆえに、それ以外の可能性は原則として存在しないことになる。ゆえに木原は、自分たちの書いたものがどれだけ小説と似ていようと、それが小説であるとはけっして認めない。つまり、そこには片説と小説は違うという明示的意識があるのだが、その違いが何かということに目を向けたとき、私たち読者は必然的に、自分たちが意識している「小説」とは、そもそも何なのかという命題にぶちあたることになる。

 私たちの世界には、当然のことながら「片説家」なる職業は存在しないし、片説なる言葉も見つけられない。だが、本書における片説の定義を少し広げていくと、私たちが大きく「小説」と呼んでいるもののなかにも、「片説」というべき要素をもつものがあることに気づく。たとえばライトノベルなどは、基本的に十代の若い人たちが読者であることを前提に書かれている。編集者もそのことを意識しているし、だからこそライトノベルのマーケティングに合うように作家を指導し、作品を手直しさせ、あるいは誘導していく役目を負っている。そこにあるのは、小説というよりは、「売り物」という意識だ。そしてライトノベルにかぎらず、小説家と呼ばれている人たちのなかにも、物語を書くさいに、あるいは読者層というものを意識していることがあるかもしれない。

 本書の内容を説明するのは難しい。というよりも、そのストーリー性にどれほどの意味があるのか、判断しがたいものがある。木原は謎の女性に小説を書けと依頼され、行方不明になったその女性の妹を探すという依頼が友人の探偵に与えられ、しかし木原はいっこうに小説は書けず、また物語が探偵を中心に動くこともない。つまり、本書はストーリー中心の作品ではないし、また既存のジャンルにもあてはまらないものがあるのだ。そしてそれは、おそらく著者が強く意識しているものでもある。なぜなら、何らかのジャンルに属する小説というのは、それだけで読者を限定することになり、それは必然的にその人たちに向けて小説を書くことになってしまうからだ。

 どんなものだって小説だといえるし、また実際に小説なのだった。僕はそうした小説がいくつも世に出ているのを知っていたし、実際に読んだこともある。――(中略)――つまり、小説を書くような心で書けば、それは小説なのでは?

 上記引用に出てくる「小説」という言葉が、「片説」の要素をもたない小説であることを考えれば、その重みというものが少しは理解できるだろうか。じつに何気ない、あるいはあたりまえのような文章ではあるが、そこには本当の意味での「小説」を書きたいという想いが込められている。本書は、小説家になれずに「片説家」に逃げ、しかし「片説家」にもなりきれなかったひとりの男が、それでもなお小説を愛し、そんな小説を書きたいと望み、そうなることを目指して遍歴する物語である。

 小説を定義するときに、その形式や内容はさほど重要ではない。言ってしまえば、何の妥協もなくただ「小説」を書きたいという思いの強さがその作品を小説にし、また読者がそれを小説だと認めれば、それもまた小説だということになる。ただの言葉でしかない小説が、人の心を動かすというひとつの奇跡――書き言葉がありふれたものとして、誰もが手にすることのできる技術となって浸透した現代の日本において、それでもなお小説という表現形式を選ぶこと、あらゆるアイディアが出尽くし、もはや機能不全さえ起こしているように思える小説を、それでもなお書き続けることに、本書は大きな意味を与えようとしている作品だと言える。(2009.11.22)

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